ワイワイブログ

畢竟独自の見解

賭博・普遍性・主観確率

え〜〜〜みなさん,こんばんは。

近年世間を賑わせた,いわゆるはずれ馬券訴訟についてのメモです。
最判平成27.3.10(刑集69-2-434,以下平成27年最判),最判平成29.12.15(民集71-10-2235,以下平成29年最判),最判平成30.8.29(以下,平成30年最判)を前提とするので,よろしくお願い申し上げます。
また,付け焼き刃的知識で適当なので,間違いがあればご指摘よろしくお願いいたします。

 

*問題状況
ワイは租税法選択でもなければ社会人経験者でもないため,税法について全然知らないのですが,一連の判例の問題状況というか,訴訟の理論的動機というのは大要以下のようなものだと理解しています。
すなわち,まず,馬券を買い予想が的中すれば払い戻しがあるわけですが,その払い戻された収入が,一時所得にあたるのか,雑所得にあたるのかという問題があります。馬券を買う側としては,払い戻しの所得に対し,外れ馬券購入分を経費として控除したいわけですが,払い戻しが一時所得とされれば,認められる経費が狭いため外れ馬券購入分が課税対象額から控除されないことになり,不利になります(雑所得とされた場合,経費として控除される)。

 

 

雑所得該当性はバスケット条項であるため,一時所得に当たるかどうかの検討がまずもって必要となる。
所得税法34条1項によれば,一時所得とは「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得及び譲渡所得以外の所得のうち,営利を目的とする継続的行為から生じた所得以外の一時の所得で労務その他の役務または資産の譲渡の対価としての性質を有しないもの」をいう。
すなわち,あたり馬券の払い戻しが「営利を目的とする継続的行為から生じた所得」に該当するかどうかが問題の焦点となる。継続的かつ大量に馬券を購入し払い戻しも受けていたとしても,個別の払い戻しに着目すれば「一時の所得」であることは明らかなので,仮に払い戻しが「営利を目的とする継続的行為から生じた所得」であるとすれば,雑所得として取り扱われる。更に言えば,「一時の所得」該当性を個別のひとつひとつの払い戻しに着目してみるのであるから,「継続的行為」かはあまり問題ではなく,真に注目すべきは「営利を目的とする」行為から生じた所得かどうかであると思われる。

 

平成27年最判,平成29年最判は,払い戻しを雑所得と,平成30年最判は一時所得と扱った。

 

いずれの事案も,プロ馬券師のような人が,独自データないしプログラムを使用しレース結果を予想し,継続的かつ大量に馬券を購入していた。
他方,平成27年および平成29年最判(雑所得)と,平成30年最判(一時所得)を分けた有意な違いは,購入する馬券を選ぶ際,的中率の高低のみに着目していたか(平成30年最判),それとも実際の投下資本の回収率まで着目していたか(平成27年最判,平成29年最判)であり,また,実際の回収率としても,雑所得として扱われたほうは,回収率が100パーセントを超え(全体としてみた収支がプラス),他方一時所得として扱われたほうは100パーセントを下回っていた(赤字)。
高い的中率を目指すだけならば,高い回収率を目指すよりも簡単といえよう。高い回収率を目指すのであれば,高い的中率に加え,馬券の「買い方」まで工夫する必要がある。


この前提から即座に考えられるのは,「馬券の購入方法として,(少なくともギャンブル性が否定される程度に)高い回収率まで着目したスキームを構築しており,かつ,回収率が現に100パーセントを超える(黒字である)場合,そこからの払い戻しは雑所得に当たる」ということである。
先に述べた注目点からすれば,「馬券の購入方法として,(少なくともギャンブル性が否定される程度に)高い回収率まで着目したスキームを構築しており,かつ,回収率が現に100パーセントを超える(黒字である)場合,馬券購入は「営利を目的とする」ものである」といえそうである。
しかし,仮にこの命題が上記判例から導かれるとしても,この命題は規範的にはどうもおかしいように思われる。
すなわち,馬券について,購入方法が違うだけで「営利を目的」とするかどうかが変わるというのはいかにもおかしいし,購入後の結果論として回収率が100パーセントを超えたかどうかを要件解釈の要素としてみるのは,税法上の行為規範性を著しく減する。

 

回収率が100パーセントを超えたという事後的な事実は,あくまで,馬券の購入方法として高い回収率まで着目したスキームを構築していたことを推認させる間接事実として働いているに過ぎない,と考えることもできるかもしれないし,実際そのように考えるのが解釈論としては自然かもしれない。
そのように考えることで行為規範性の問題をいくらか逸らすことができるかもしれない。
しかし,前者のほうはどうだろうか。高い回収率まで見込んだ馬券購入スキームを構築したという事実から,営利を目的とする(≒ギャンブル性に欠ける,射幸性が否定される)という認定を,「裁判所が」認定することは果たして妥当なのだろうか。
このような事実認定の推論は,すなわち「ある方法を前提とすれば,競馬はギャンブルではない」ことを裁判所が客観的に認定するということと同義なのではないか。
仮にそうだとすれば,裁判所は様々な社会的事象についてギャンブル性の認定の線引きを迫られ,その説明に苦慮することとなろう(それは賭博の一般論として公的な見解となりうる!)。

 

このような想定しうる苦慮が生じるのは,裁判所のギャンブル性についての心証を,いわゆる客観確率により説明することに一因があるように思われる。
すなわち,頻度主義により定義された,世界の側で一意に定まっている確率を前提として説明をしてしまうと,競馬等について「制度として実はギャンブル性がない(場面がある)」と公的に認定してしまうことが問題として顕在化する。
他方,確率を個人の主観的な信念として定義した主観確率を前提とすれば,以下のような説明ができるのではないか。


つまり,裁判官の心証の説明として,ある馬券購入主体について,その者が実際に払い戻された額が回収率100%以上であるという事実をベイズ改訂に用いられる情報と解釈すれば,「その購入主体による購入行為が,営利を目的とする(≒ギャンブル性に欠ける,射幸性が否定される)と言える程度に高い確率で的中するといえる」という裁判官の事後確率に基づく認定をしたとしても,制度一般に対する普遍性を伴った判示にはならず,あくまで馬券を購入した主体相関的に判断したことにとどまり,いいカンジになるのではないか。
知らんけど。

 

 

 

ほろ酔いで適当に書いているので,適宜追記する気がします。

「成文法主義(?)」についてのメモ

え〜〜みなさんこんばんは。

先日のエントリに関連して,以下のやりとりがあったのでご紹介しておきます。ご丁寧にありがとうございました。赤文字にした部分が特に重要な部分です。

moominpapa.hateblo.jp

 

質問者
【確認】
主に3つの主張から結論を導かれてると思うのですが、
①日本は成文法主義を採用している。
②成文法は法の意味内容が文章の形式で表現されたものである。
③法規範たる成文法主義によって解釈が成文法により拘束されることがありうるということをよりよく説明しうる法理論が要請される。
この3つが主な主張と考えて大丈夫でしょうか。また、③は①の対偶(文章の形式で表現されてないものは法の意味内容ではない)より導かれたものと見てよかったでしょうか。

 

【文章の形式について】
「文章の形式」についての議論ですが「文章の形式」は客観的な存在としての成文法の形式で法が制定されていること、とされていたかと思います。ここで述べられてる客観性は法が制定されていることに担保されており、成文化はその客観性の可視化をしてると思われるのですが、この見立ては誤りでしょうか?


【(成文法の)文理が指し示す世界の事態】
文理は社会的慣行によって特定される世界の事態とされていました。刑法190条の例示は、「死体」の指し示す世界の事態の特定について複数社会的慣行が存在すること例証するものでしたが、刑法190条がその文章全体として指し示す世界の事態について、いまいちピンと来ませんでした。刑法190条が指し示す世界の事態はおおむね法の適用可能性と見てよかったでしょうか?

 

【法解釈について】
議論をおってみる限りで、法解釈とは法の文理(成文法)が指し示す世界の事態(法適用可能性)を特定する社会的慣行ということかと思われました。
議論から解釈の対象が限定されることはわかるのですが、解釈のしかた(社会的慣行?)が限定されるかは判じかねました。解釈のしかたが限定されるかを説明することで、②における「解釈が成文法により拘束されることがありうるということをよりよく説明する法理論」が明確になるのではないかと思われました。解釈の対象が限定されることは解釈のしかたが限定されることと言っても差し支えないかと思いますが、一方で解釈の対象は成文法であると述べることによる、その含意(あるいは含意してないもの)について伺えたらと思います。

 

ワイ
【確認】
そのような理解で良いです。付言しておくと,成文法主義は,国がどのような実定法システムを採用するかを選択するにあたって参照されるメタ規範です(英米圏は異なるメタ規範を選択している)。

 

【文章の形式について】
ここでの客観性というのは,文字通り我々が目視できるという意味で使用していることはお分かりだと思いますが,メタ規範たる成文法主義は,そのような意味での客観性があることが成文法主義下における実定法の必要条件であると主張します。機関による制定手続と成文化(客観化)はいずれかが欠けたら法としての必要条件を備えず,一方が他方の担保的関係にあるという感じではないです。

 

【文理が指し示す世界の事態】
なかなか文章で説明することが難しい部分ですが,190条として表されているテクストについて,こうこうこういう世界の事態の時に,当該条文が適用されることになるという(複数の)慣行がありうるでしょう。もっとも,ひとつの条文テキスト全体についてその文理が問題になることはないでしょうね。

 

【法解釈について】
「法解釈とは法の文理が指し示す世界の事態を特定する社会的慣行」とは考えていません。議論のターゲットは,法解釈の「対象」と「枠」についてで,対象については「(いわゆる)インクのシミ」,枠についてはインクのシミの意味について社会的に構成される(複数の)慣行によって枠づけられる,ということがメタ規範たる成文法主義によって要請されると考えています(その程度にとどまる主張)。例えば,190条に現れる「死体」というテキストとしては,おそらく,心臓死のみという慣行と脳死も含むという慣行があると思いますが,それゆえ法解釈としてはそのいずれかを選ばなければいけないことになります(慣行として成立していない第三の選択肢は選べない)。
「解釈の仕方」ですが,そこでの含意は簡単に言えばテキストの軽視(あるいは無視)というような立場は採ることができない,という程度の主張です。

解釈対象が成文法であること自体は否定し難いことですが,成文法主義の要請を軽視する立場であれば,成文法の解釈方法としてそのテキスト文言(とそれについて社会一般の人々はどのような意味として考えているか)を軽視ないし無視することも理論的立場としてありえ,そのような立場を拒否するというのがワイの意図するところです。

 

 質問者

【文章の形式について】
目視できる形で法が世界に存在していることが、成文法主義下での客観性を有することの必要条件ということですが、「目視できる形で」存在することの意義はその法内容の検証可能性にあると私は思っています。一方で、ムーミンさんは検証可能性としてでなく、世界に目視できる文字として存在していることによって何らかの重要性を見いだしてると思うのですが、それについて伺えたらと思います。

 

【法解釈について】
いわゆるテキストの軽視という立場とは、ドゥオーキンが述べるところのプラグマティズムと見てよかったでしょうか? あるいはドゥオーキンが支持する法の純一性も含めた立場も、テキストの軽視をする立場という意見だったでしょうか?

 

ワイ

目視できる文字として存在することの意義とかは私が重要視しているというより,それが成文法主義の概念的要請であることを述べているにすぎません。また,テキストの軽視の立場とは特にドゥオーキンを指すとかはなく,日本の実定法解釈においてテキストを軽視する立場全てが妥当ではないというものです。
確かに文章全体としてぼくが目視できる文字として存在することを重要視しているように読めますね。スタンスとしては,重要視している,というよりも現実の法実践に良く整合するように思っている,という感じです。

 

質問者
質問についておおむね納得出来ました、長丁場のお付き合いありがとうございました。
また、ブログの記事については興味深く拝見しておりました。次回の記事もまた首を長くして待ってます。それでは失礼しますm(__)m
P.S.坂道グループに絡ませて書かれた記事個人的に好きです。

成文法主義(?)

え〜〜〜〜〜〜,みなさん,こんばんは。

分野別修習もそろそろ折り返し地点,引き続きゆるゆるとやっていこうと思います。

今年度の司法試験もそろそろですね。受ける友人も多いので,ちょっと緊張しますね。応援しています。

 

 

さて,標題についてですが,適当に思っているところを書きます(マジで適当)。

 

ここでワイが着目しているのは,制定法(statute law)がもつと思われる①成文化され②一定の機関が制定した法,という側面のうち,①について(written lawの側面)。

日本はいわゆる制定法主義,成文法主義を採るとされ,英米圏と対比される法システムを採用しているといわれる。ここでいう「成文法」とは,法の意味内容が文章の形式で表現されたものをいい,”ただ一つ存在する成文法典”(死海文書のような)のような特定の物理的存在をさすのではない。

 

ある国家が成文法主義を採用しているという時,典型的にはその国が制定した最高法規たる憲法の解釈は,成文法によって拘束される。というより,「解釈が成文法により拘束されることがありうる」ということをよりよく説明しうる法理論が,制定法に先行して存在する法規範たる成文法主義によって要請されると思われる。

 

「法の意味内容が文章の形式で表現されたもの」とはなにか。ここでいう「文章の形式」という言葉によって含意されるのは,我々が脳内で思考する時に想像しうる文であったり,ある人々によって共有されるコードのようなものーー例えば,「山月記」について一定の者たちは「その声は,我が友,李徴子ではないか」という一文を脳内に呼び起こすことができるだろうが,そのときの”共有されている脳内の一文”ーーではない

ここで含意されるのは,我々人間の側ではなく,世界の側に存在する客観的な存在ーー紙の上に一定の形で存在するインクであったり,ディスプレイ上での一定形式のライトの表示などーーとしての「成文法」の形式で,ある法が制定されているということだ。

実定法学者らによる特定の法の解釈についての論争も,このような成文法主義の要請の元では,ーーある”書”(言い方は悪いが,それは和紙などの紙の上の墨汁による「しみ」である)について我々がその審美性について議論するのと同様にーー我々が「文字」として認識を共有しているある一定の形を有する点と線の意味をめぐる論争であると捉えられるべきだろう。

 

解釈が成文法により拘束される事態がありうる,とはどのような意味か。さらにここで含意されているのは,次のようなことだろう。

「解釈」は一般的にはある文章の意味内容を確定させる(そして認識する)作業をさすのであろうから,成文法の意味内容を確定させるための作業である解釈が,成文法により拘束される,というのは循環している。そうではなく,通常我々が成文法主義の概念的要請とするのは,解釈が一定の「文理」によって拘束される,ということであろう(「文理」など存在しないという立場もあろうが,それは制定法以前に存在する成文法主義の要請に違背するというのが本エントリにおけるワイの立場)。

 

では「文理」とは何か。ある一定の形を有する点と線の並びについて集団内で構成され存在する社会的な慣行によって特定される,世界の事態を指すだろう。例えば,「現在福岡は晴れている」という文字列について,日本語を解す集団内では,ある時点において福岡上空に雨雲が存在せず,太陽が照っているという世界の事態を指し示す文字列であることが社会的慣行として存在しているだろう。

上記の例はあまり慣行の成立について疑問がもたれないものだろう。

他方,刑法190条

死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、3年以下の懲役に処する。」における「死体」の文字列について,たとえば日本語話者内において,それが脳死状態の者を含むのかどうかについて,ただ一つに定まる慣行が存在しているとは言い難く,この場合はいずれの慣行もがあるというべきだろう。

ここで,「慣行など,客観的に特定できないだろう!」という疑問が生ずるかもしれないが,それは上記の立場に内在する問題ではない。社会的慣行は世界の側に(複数(?))存在し,ある文字列について〜という意味を与えることこそが一般的なのだ,慣行としてあるのだという争いは普通に我々がしていることであるし,それは文字列の「文理」を特定するための真正な争いだろう。

 

結局ここで述べておきたいのは,法解釈に関する立場決定が,すでに成文法主義によって制限されざるを得ないのではないか,ということだ。

我々はインクのシミの意味についてこそ,真剣に争っているのである。

「正は不正に譲歩する必要はない」の意義について

え〜〜〜みなさん,こんばんは。

お元気でしょうか。わたしは流行に乗り遅れないタイプなので,無事インフルに罹患していましたが今は元気にブログを書いております。ところで,「罹患」ですが,大学何回生かまで「らかん」と読んでいました。閑話休題

 

 

さて,正当防衛(刑法36条1項)について勉強した方ならこの命題を一度は見たことがあるだろう。

「正は不正に譲歩する必要はない」

この命題を指して「法確証原理」と呼ぶこともあるが,ワイはあまりこの呼称を正しいものだと考えていないため,以下では単に「当該命題」と呼称する。

 

当該命題は特に退避義務の否定であったり,緊急避難と違い正当防衛の成立要件に補充性が課せられていないことの実質的な理由となっているといえる。

このような正当防衛成立要件と当該命題の関係性からすると,当該命題は「正当防衛」制度の実質的な正当化根拠であり,正当防衛の成否について内在的な制約根拠となっていると考えるのが自然だろう。

当該命題を持ち出して正当防衛の成否や侵害退避義務を否定することは,結論の先取りにすぎないとされたり,一般的に否定するのは無理だという批判はS伯先生やY口先生,H爪先生などが行なっており,それ自体はまあまっとうな批判だろうなあと思う反面,個人的には議論の前提として以下の点が気になっている。

 

・「法は不法に譲歩する必要はない」=「正は不正に譲歩する必要はない」?

すなわち,当該命題を「法は不法に譲歩する必要はない」と意味内容が同じものとみなし,あまり両者の違いを意識していないと思われる点である。

仮に両者が一緒だとすれば,当然結論先取という批判は妥当するだろう。

このような取り扱いは,「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。」の「不正」の文言が,違法という意味で解釈されていることに起因するかもしれない。

しかし,ここでは正当防衛制度の正当化根拠としての命題の話をしているのであるから,「文言の「不正」が違法と解釈されている以上,「正は不正に譲歩する必要はない」も「法は不法に譲歩する必要はない」と解釈していいだろう」とすることは逆転現象もいいところであり,いわば風呂桶の水と一緒に赤子を流すようなものである(言いたいだけ)。

※実際には,当該命題のヒストリカルな淵源から,云々した結果らしい(ドイツのBernerがどうのこうの)。しかし,「正は不正に譲歩する必要はない」だろうが「法は不法に譲歩する必要はない」だろうが,現在の法実務や法秩序にとりうけいれがたい命題であれば,そのことのみを理由として排除すべき命題なのであるから,措く。

 

 

では,当該命題について以下のように考えたらどうなるだろう。

・「(道徳的)正は(道徳的)不正に譲歩する必要はない」(以下,「道徳命題」と呼称)

※道徳とは功利主義道徳のことであり,また,法規範と道徳規範は相互参照がありえつつも規範領域において別個に存在するということは前提とする

 

道徳的に正しい行為であれば,道徳的に不正な行為に対し譲歩する必要はなく,むしろ叩き潰すのが功利主義的であろうから(というより,もはや叩き潰さなければ道徳的に正しいとは言えない可能性すらある),道徳命題自体は道徳的に支持しうる命題と言えよう。それ以上に,仮にこの道徳命題を正当防衛の正当化根拠とするのであれば,侵害退避義務の否定にすら繋がりうる(?)(もっとも,命題は「譲歩すべきでない」ではなく「譲歩する必要はない」であるから譲歩してもよいのであり,この点言い過ぎ疑惑はあるので気にしないでほしい)。

また,前提より,道徳規範により与えられる道徳的評価は法的評価と独立に存在しうるのであるから,道徳命題を正当化根拠・内在的制約根拠とした解釈については結論先取の誹りは当たらない。

 

さらに,道徳命題が正当化根拠なのであれば,補充性が課せられていないことの説明も容易だろう。

 

また,いずれの行為が道徳的に正しいかは,当該行為のみならず,行為者の性質等も加味し判定されるのであるから,両者において問題となる被侵害法益も当然考慮の対象に入ってくる。

社会的法益や国家的法益のための正当防衛が認められるのか(「自己または他人の権利を防衛するため」の文言があることに由来する論点)については,次のように応答することができるだろう。

すなわち,生の功利主義はそのような社会的法益,国家的法益を保護するための「正当防衛類似行為」を肯定するかもしれない。しかし,我々が支持する間接功利主義は,統治者の最適動機群や最適規則体系に行為主体相関的な道徳判断を許すのであるから,より善い道徳状態の達成のために使用される法制度の在り方として,ただでさえ功利計算が死ぬほど苦手な我々に「社会的法益,国家的法益 」の保護を許容するように仕向けることはしないのではないか。

換言すると,「社会的法益,国家的法益」を被侵害法益として正当防衛の成立を認めるような法制度を策定すると,それにより間違った防衛活動(行為者は「社会的法益,国家的法益」を守っていると思っているが,客観的にはそれに反するような事態が生じている)が多発しかねず(聡明なブログ読者の諸君であれば,現在の社会を見渡せばそのような想定があながち間違ってはいないことはお分かりの通りだろう),道徳的により善い事態の達成が図られないことから,「自己または他人の権利」に限り正当防衛の成立を認める,とあえてすることがむしろより善い結果を導くと考えることができるのである。

 

さらに,緊急救助事例(他人の権利防衛の事態)もわりとすんなり説明がつくだろう(説明省略)。救助者と被侵害者の,侵害者に対する反撃行為の際の道徳的地位はあまり変わらないだろう。

 

 

ちょっと飽きてきたのでまた追記します。

 

新年のご挨拶と故意責任の本質

え〜〜〜〜みなさまあけましておめでとうございます。

今年も余裕かまして生きていきたいと思います。

 

 

 

さて,

故意責任の本質は,規範に直面しつつ反対動機が形成可能であったにもかかわらず,あえて行為に及んだことに対する道義的非難である。

 

微細な点で異なれど上記のような論述は市井に広く流布しているといえよう。本記事では上記論述にたいする簡単な批判的検討を行う。

 

ーまず,「故意責任」という用語を刑法の論述として使用する場合,注意が必要だろう。

「故意責任」は一般的に使用される用語であるが,刑法においては故意が違法要素なのか,責任要素なのか,それとも両方(?!)なのかについて大きな対立がある以上,故意が責任要素であるという立場を表明するような記述をするからには,一定の立場決定を伴っていることを自覚すべきだろう。ちなみに井田説は違法要素のみとするものである。

 

 

ーまた,「規範に直面」とはいかなる場面だろうか。

以後の記述でよく見られるのは,”一般人には規範は構成要件という形で与えられている”みたいなものだったと記憶している。

このような記述がある反面,「法の不知は恕せず」という法格言もあるように,違法性の意識は一般的には犯罪の成立を左右しない。

そうであるとすると,ここでの「規範に直面」とは額面通り,ある行為の際,行為者が,「あ〜,刑法が「〜すべきでない」と私に命じていることだなあ」と認識するということを意味すると解することはできない。

むしろ,「道義的非難」という言葉が使用されていることからすれば,ここでの「規範に直面」とは,「あ〜,道徳が「〜すべきでない」と私に命じていることだなあ」と認識することを意味すると解さざるを得ないのではないか。

しかし,ここでの規範は構成要件という形で与えられているのであるから,この記述においては,刑法が構成要件を設定し,その存在により因果的に,当該構成要件の意味論的内容である命題に対応する道徳規範が創出される(もしくはこの道徳規範が,実際に国会により主権者からの命令という形で可決・施行され存在する刑法(とその内容である構成要件)の存在に随伴し存在する)という前提があると思われるのではないか。

 

仮にこのような前提が上記の論述に存在しているとすれば,直ちに以下の点が問題になるだろう。

すなわち,上記の前提が正しいとすれば,ある刑法的な故意判断は必然的に道徳的判断を伴うが,amoral legalistの存在可能性を承認しうる以上,そのような判断の必然性は破られうるだろう。

また,宗教的義務と道徳的義務の真正な衝突の場面と思われるイサクの捕縛Akedat Itzchakの場面を想定せずとも,法的判断と道徳的判断が衝突する場面は我々の多くが経験してきていることだろう。

 

 

ーさらに,「反対動機が形成可能であったにもかかわらず」も問題となる。

おそらくここでは,ある行為者のある行為に対し責任を問う際の必要条件としての他行為可能性があったこと(そして前提として自由意志に基づく行為であること)が想定されているのでしょう。

すなわち,ある行為者が,ある人を刺し殺してやろうとナイフを振り上げた際,「やっぱ殺さんとこ」という「反対動機」が形成可能だったかどうか(そしてそのような反対動機が実際に形成されれば,反対の行為(ここではナイフで刺し殺さないこと)がなされていた)という検討が,責任追求に際しての実質的な理由を形成しているのである。

しかし,このような考えは以下のような問題点を含んでいるように思われるため,注意が必要だろう。

すなわち,ある行為に対する動機が(真摯な判断によって)形成されたとしても,他の異なる動機によって,その動機が行為者を実際に行為に及ばせる因果的な力が切断されることは合理的に考えうる。たとえば,私が「ケンタッキー食べたいな〜」と真摯に判断し,ケンタッキーを食べに家を出るという動機を形成したとしても,「やっぱ金欠だったわ」とかの理由により,ケンタッキーを食べに家をでないという動機もまた形成され,後者の動機が優先された結果ケンタッキーを食べに家を出ないとしても(前者の理由がなお重みを有するとしても)それは合理的な実践的判断だろう。

また,ある判断(ここでは法的判断(とそれに随伴?する道徳的判断))をなしたとしても,そこから必然的に動機付けが伴うと想定すること自体,重大な問題を含んでいる(規範的判断に対する動機付けについての内在主義)。

さらに,そもそも,責任を問う際に他行為可能性が必要条件とすることは,近時多くの批判を受けている(むしろ,自らの行為の統御(可能性)という点での行為者性agencyこそが責任の必要条件とする説が有力であろうか)。

例えば,信号無視をして車で交差点を右折(ないし直進)し,結果事故を招いたという場面において,当該車は,右折(ないし直進)の際偶然にも左ハンドルを切れないような形で故障していたとする。この場面で運転手は右折ないし直進をしようと思い実際に行ったということには争いがなく,しかしこのような運転手に責任を問うことに問題は無いように思われるだろう。

 

 

以上の簡潔な検討からもわかるように,上記の論述には多くの(((メタ)倫理的な・法的な)重大な)問題があり,このような論述を安易にありがたがるのは,あまり望ましいことではないのだろうと思う。

 

 

以上

実況!パワフル導入修習

え〜〜〜〜みなさん,こんばんは。

なにはともあれ先日導入修習を終えたので,記憶が残っているうちに修習中に感じたどうでもいいことについてさっそく感想を書いておきたいと思います。

なお,修習の講義等への感想はあんまりないのでそのように。

 

 

・駅(和光市駅)から研修所までソコソコある。バスに乗ればすぐだけど,ワイはバスがあまり好きではない。しかし歩くのはもっと好きではないので乗る。

 

・入寮日の寮1階には先人たちが遺した物品たちが大量に置いてあり,早めについた人々はそれを我先に奪い合うのだが,なんというかこれが非常に精神的に辛かった。参加しといてなんだけど。これが理論と実践の乖離というものです。

 

・部屋はまあ思ったより普通だったが,壁が薄い点はやっぱり気になる。壁にぶつかったりしないように気を遣った。また,ランドリー室があるわけだが,ワイはあまり乾燥機に馴染みがない人生を送ってきたので,それが使えることがやや嬉しかった。

 

・毎朝講義棟の1階で出席をとるわけだが,毎回わざわざ印鑑を押させるのはなかなか大変だなあと思う。まあしょうがないのかね。朱肉の消費量どうなってんねん

 

・講義は基本的にあんまり面白くはなかった。まあしょうがない。

 

・お昼ご飯事情だけど,これが一番深刻なきがする。昼休みに食べに行くような場所も近くにあんまりないしね。ワイはよく売りに来てる松屋を利用してました。なんで松屋?入札とかしたのかな

 

・なんかみんな良いスーツ着ている気がする(しらんけど)。

 

・飲み会が多い。飲み会あまり好きじゃない人とかは大変だなあと申し訳なく思う。1月からはちゃんと運動します。

 

・体育館,滑りすぎ。スケートリンクかと思った

 

・なんかワイが尊敬すべき井田先生が講義を見学に来ていたらしい。神戸修習のクラスだったかな。本当に羨ましい上,そのクラスの人たちは全然気づかなかったらしいじゃないですか。ワイのクラスに来たら,ワイは入室1秒で気づき,挨拶に伺い,名刺を渡し,自分のブログ記事を見せ,ワイシャツにサインしてもらったはずです。なぜならワイは72期随一の井田刑法学ファンだからです。

moominpapa.hateblo.jp

moominpapa.hateblo.jp

 

・ラーメン結構食べた。樹真とか,二郎とか蒙古タンメンとかいろいろ。豚レンジャーは集合で行きます。

tabelog.com

 

・そういえば,教官が「法解釈とは...」みたいな話を始めたことがあり,椅子から転げ落ちそうになっていた(ワイだけ)。まあ色々思うところはあります。

 

・結局一度も食堂のごはんを食べなかったな。とんでんは行った。

 

・起案はまあぼちぼち。

 

・こうやって振り返るとあんまり感想がない。そこそこ楽しく過ごしたけど,やっぱり分野別に早く行きたい。自分の本もたくさん読めるしね。

 

なんかこれについて書いてくれとかあったらコメントでどうぞ。随時追記します。

 

以上

 

 

瀧川裕英『国家の哲学』ランニングコメンタリー;第1章

 

※明示的な引用とは別に、カギカッコ(「」)による引用もします。

基本的にワイが引っかかったところを紹介していくカンジなので、多分にないものねだりで「そんなの論じる紙幅なんてあらへんわ!」的なコメントになると思います。そこんところご了承ください。

 

 

第1章”個人は国家に対して義務を負うか?ー政治的責務の正当化根拠を問うー”

 

 

・まずは問題の設定。

私が本書で試みるのは、国家の存在理由を再検討し、国家の意義を解明することである。(1頁)

グローバル化の中で、振る舞いが恣意的に見える国家の存在理由を検討するようだ。

 

・2p。

ストレンジによれば、グローバル化によって、国家は退場しつつあるとしても、消滅しつつあるわけではない。言い換えれば、国家の権威は衰退しつつあるが、市場が提供し得ない基本的事柄に関してはそうではない。例えば、安全保障、通貨、法システム、インフラ整備に関しては、依然として国家は重要な意義を持つ。

これはどうなんでしょ。ストレンジを引いているからそちらに当たればいいのだろうけど、心の中のアナキャピが反応してしまう。まあ本書で論じることでもないか(知らんけど)。

 

・4p〜5p。

 本書で私は、政治的責務をさしあたり、「個人が特定の国家に対して負う責務」として捉えておく。法を守る義務である遵法義務は、政治的責務の重要な一部として、まずは位置づけておく。

一応の定義づけ。もっとも、遵法義務の存否もそもそも問題ではあるし(ワイは認めないマン)、法の存在と国家の存在の関係性もそもそも問題だと思うので、なんか一応留保が欲しかったな〜〜(無い物ねだり)。

 

・5p。政治的責務は道徳的義務とは違うものとされる。ホ〜。道徳的義務との対比軸は、①「第一に主体の面で、すべての道徳的人格ではなく、特定の政治的人間が負う義務」②「第二に対象の面で、普遍的な義務ではなく個別的な義務」(原文では「普遍的」「個別的」に強調点)。

①について、「人格」を使っているところ、これは「人間」とは異なる意味で使われている(後の文章で「人間は人格である限り、道徳共同体の一員となる。」とある)。

そもそも「人格」の存否という問題があることは注意。また、「道徳的人格」や「政治的人間」という際の「道徳的」「政治的」という語の使い方になんか違和感を感じる。ここでは道徳に適った振る舞いをするようなことを「道徳的」などと言っているわけではないよね…?

 

あと、②については道徳的個別主義(道徳的特殊主義)の存在も気になる。

ともあれ、文章から瀧川先生の道徳哲学上の立場を推認するしかないのでちょっと大変。ある程度立場を先に示して欲しいなあ。

 

 

・7p。義務と責務の区別。これは大事ですね。

あれ、てか5pの第一の対立軸は「義務」と「責務」の区別にすでに解消されるくね?(特定の)「相手方」という義務と責務の差異。う〜んわからん。

 

 

・7p。

 以上のように、政治的責務と道徳的義務は区別される。しかしながら、政治的責務は道徳的である。(原文は「政治的責務は道徳的である」に強調点)この点は誤解を生むかもしれないため、十分注意する必要がある。これが意味するのは、政治的責務は道徳的理由によって正当化されたり否定されたりする、ということである。

 逆にいえば、政治的責務は法的義務ではない。より正確に言えば、政治的責務は法的義務であるとは限らない。ある政治的責務を法的義務とするような法実践が存在する場合に、政治的責務は法的義務となる。

 ここでの「政治的責務は道徳的」という語法はわかりづらいね。ヘアを引いているので、ヘアの語法なのかな。

ところで、「逆にいえば」←逆にいえば!!!?!? つまり、瀧川先生は法的義務は道徳的理由によって正当化されたり否定されたりしない、と考えているということなのかな。

 

 

・8p。

同様に、法に従う法的な義務は、法というゲームに参加する人にとっての義務でしかない。では、法というゲームに参加することは道徳的義務か。逆に、法というゲームの部外者であることはなぜ道徳的に許されないのか。これが、政治的責務の問いである。

最後の、「これが、政治的責務の問いである。」は、本書のこれまでの書き振りからすると、限定的に読むべきではないよね。多分。

 

 

・8p。1.4.1 個別性の要請。

「...この場合に、自国Xの戦争に抵抗し他国Yを支援する義務があるといえるかもしれないが、それは政治的責務ではない。政治的責務とは、あくまで自国に対する義務である。」←自国/他国の判定はどのように行われるんだろうか?国籍法によって行われるんじゃないかと思うが、そうであれば政治的責務は法的義務から派生する形でしか存在できないのでは?って思うけど。。。あと、「支援する義務」は「義務」であってるのかな。ここは「責務」ではないんだね。同様に、「政治的責務とは、あくまで自国に対する義務である。」もそう。わからなくなってきた

定義上、義務と責務は排他的に使用されるべきように思われるのだけど、違うのかな。読んでる感じ違うっぽい。あまりここでは強く区別しないのかな。むしろ、「義務」「責務」の前につく「道徳的」「政治的」の含意による区別が意識されているっぽい。ならわざわざ「義務」と「責務」の違いを強調する必要とか、そもそも区別する理由がよくわからんなあ。

政治的義務と道徳的義務があり、政治性と道徳性はそれぞれ異なる。政治的義務の道徳的評価は可能であり、逆もまた然り。みたいな感じではダメ?

 

 

 ・9p。「他者に危害を加えない義務は、むしろ自由を促進する面を持つ。」わかるようでイマイチわからんけど、まあいいか。

 

 

・9p。「このように、自由や平等との衝突の可能性を孕んだ政治的責務が体現する価値は、友愛である。」

自由、平等、友愛といったそれぞれの価値があるという前提っぽい。そもそもそれはそれ自体で価値足りうるのか、〜的がつかない裸の「価値」とは何かという疑問はあるね。

 

 

・9p。政治的責務は一応の義務。了解。

 

 

・11p。1.5.2多元的忠誠

「忠誠の複数性」を前提にした愛国主義的忠誠の可能性はあるか。これはおもしろい問い。

 

 

・12p。 1.5.3一応の義務と熟議プロセス

「道徳的な熟議プロセスにおいて、ある行為を要求する道徳的理由が認定されると、当該行為は一応の義務となる。」

これを見るに、瀧川先生は道徳的義務は一応の義務という前提かな。ヘアとかは違うんだっけ。

と思ったら、ここからの「一応の義務」の使い方は、進行中の熟議プロセス内で認定されるものとしての義務のようだ。このプロセス的理解は知らなかった。勉強になります。

 

 

・遵法義務と遵法意識は無関係。はい。

 

まとめ

グローバル化という問題圏の存在を動機として、プロセス的に理解された一応の義務としての政治的責務(「政治的義務」ではダメなのかしら)の正当化根拠を検討するのが本書の方針、ということでいいかな。