ワイワイブログ

畢竟独自の見解

瀧川裕英『国家の哲学』ランニングコメンタリー;第1章

 

※明示的な引用とは別に、カギカッコ(「」)による引用もします。

基本的にワイが引っかかったところを紹介していくカンジなので、多分にないものねだりで「そんなの論じる紙幅なんてあらへんわ!」的なコメントになると思います。そこんところご了承ください。

 

 

第1章”個人は国家に対して義務を負うか?ー政治的責務の正当化根拠を問うー”

 

 

・まずは問題の設定。

私が本書で試みるのは、国家の存在理由を再検討し、国家の意義を解明することである。(1頁)

グローバル化の中で、振る舞いが恣意的に見える国家の存在理由を検討するようだ。

 

・2p。

ストレンジによれば、グローバル化によって、国家は退場しつつあるとしても、消滅しつつあるわけではない。言い換えれば、国家の権威は衰退しつつあるが、市場が提供し得ない基本的事柄に関してはそうではない。例えば、安全保障、通貨、法システム、インフラ整備に関しては、依然として国家は重要な意義を持つ。

これはどうなんでしょ。ストレンジを引いているからそちらに当たればいいのだろうけど、心の中のアナキャピが反応してしまう。まあ本書で論じることでもないか(知らんけど)。

 

・4p〜5p。

 本書で私は、政治的責務をさしあたり、「個人が特定の国家に対して負う責務」として捉えておく。法を守る義務である遵法義務は、政治的責務の重要な一部として、まずは位置づけておく。

一応の定義づけ。もっとも、遵法義務の存否もそもそも問題ではあるし(ワイは認めないマン)、法の存在と国家の存在の関係性もそもそも問題だと思うので、なんか一応留保が欲しかったな〜〜(無い物ねだり)。

 

・5p。政治的責務は道徳的義務とは違うものとされる。ホ〜。道徳的義務との対比軸は、①「第一に主体の面で、すべての道徳的人格ではなく、特定の政治的人間が負う義務」②「第二に対象の面で、普遍的な義務ではなく個別的な義務」(原文では「普遍的」「個別的」に強調点)。

①について、「人格」を使っているところ、これは「人間」とは異なる意味で使われている(後の文章で「人間は人格である限り、道徳共同体の一員となる。」とある)。

そもそも「人格」の存否という問題があることは注意。また、「道徳的人格」や「政治的人間」という際の「道徳的」「政治的」という語の使い方になんか違和感を感じる。ここでは道徳に適った振る舞いをするようなことを「道徳的」などと言っているわけではないよね…?

 

あと、②については道徳的個別主義(道徳的特殊主義)の存在も気になる。

ともあれ、文章から瀧川先生の道徳哲学上の立場を推認するしかないのでちょっと大変。ある程度立場を先に示して欲しいなあ。

 

 

・7p。義務と責務の区別。これは大事ですね。

あれ、てか5pの第一の対立軸は「義務」と「責務」の区別にすでに解消されるくね?(特定の)「相手方」という義務と責務の差異。う〜んわからん。

 

 

・7p。

 以上のように、政治的責務と道徳的義務は区別される。しかしながら、政治的責務は道徳的である。(原文は「政治的責務は道徳的である」に強調点)この点は誤解を生むかもしれないため、十分注意する必要がある。これが意味するのは、政治的責務は道徳的理由によって正当化されたり否定されたりする、ということである。

 逆にいえば、政治的責務は法的義務ではない。より正確に言えば、政治的責務は法的義務であるとは限らない。ある政治的責務を法的義務とするような法実践が存在する場合に、政治的責務は法的義務となる。

 ここでの「政治的責務は道徳的」という語法はわかりづらいね。ヘアを引いているので、ヘアの語法なのかな。

ところで、「逆にいえば」←逆にいえば!!!?!? つまり、瀧川先生は法的義務は道徳的理由によって正当化されたり否定されたりしない、と考えているということなのかな。

 

 

・8p。

同様に、法に従う法的な義務は、法というゲームに参加する人にとっての義務でしかない。では、法というゲームに参加することは道徳的義務か。逆に、法というゲームの部外者であることはなぜ道徳的に許されないのか。これが、政治的責務の問いである。

最後の、「これが、政治的責務の問いである。」は、本書のこれまでの書き振りからすると、限定的に読むべきではないよね。多分。

 

 

・8p。1.4.1 個別性の要請。

「...この場合に、自国Xの戦争に抵抗し他国Yを支援する義務があるといえるかもしれないが、それは政治的責務ではない。政治的責務とは、あくまで自国に対する義務である。」←自国/他国の判定はどのように行われるんだろうか?国籍法によって行われるんじゃないかと思うが、そうであれば政治的責務は法的義務から派生する形でしか存在できないのでは?って思うけど。。。あと、「支援する義務」は「義務」であってるのかな。ここは「責務」ではないんだね。同様に、「政治的責務とは、あくまで自国に対する義務である。」もそう。わからなくなってきた

定義上、義務と責務は排他的に使用されるべきように思われるのだけど、違うのかな。読んでる感じ違うっぽい。あまりここでは強く区別しないのかな。むしろ、「義務」「責務」の前につく「道徳的」「政治的」の含意による区別が意識されているっぽい。ならわざわざ「義務」と「責務」の違いを強調する必要とか、そもそも区別する理由がよくわからんなあ。

政治的義務と道徳的義務があり、政治性と道徳性はそれぞれ異なる。政治的義務の道徳的評価は可能であり、逆もまた然り。みたいな感じではダメ?

 

 

 ・9p。「他者に危害を加えない義務は、むしろ自由を促進する面を持つ。」わかるようでイマイチわからんけど、まあいいか。

 

 

・9p。「このように、自由や平等との衝突の可能性を孕んだ政治的責務が体現する価値は、友愛である。」

自由、平等、友愛といったそれぞれの価値があるという前提っぽい。そもそもそれはそれ自体で価値足りうるのか、〜的がつかない裸の「価値」とは何かという疑問はあるね。

 

 

・9p。政治的責務は一応の義務。了解。

 

 

・11p。1.5.2多元的忠誠

「忠誠の複数性」を前提にした愛国主義的忠誠の可能性はあるか。これはおもしろい問い。

 

 

・12p。 1.5.3一応の義務と熟議プロセス

「道徳的な熟議プロセスにおいて、ある行為を要求する道徳的理由が認定されると、当該行為は一応の義務となる。」

これを見るに、瀧川先生は道徳的義務は一応の義務という前提かな。ヘアとかは違うんだっけ。

と思ったら、ここからの「一応の義務」の使い方は、進行中の熟議プロセス内で認定されるものとしての義務のようだ。このプロセス的理解は知らなかった。勉強になります。

 

 

・遵法義務と遵法意識は無関係。はい。

 

まとめ

グローバル化という問題圏の存在を動機として、プロセス的に理解された一応の義務としての政治的責務(「政治的義務」ではダメなのかしら)の正当化根拠を検討するのが本書の方針、ということでいいかな。

 

 

井田良『講義刑法学総論』第2版宇宙最速レビュー

え〜〜〜みなさん、こんばんは。

本日は、出版から10年が経過し初の大改訂となった井田良『講義刑法学総論』の宇宙最速を銘打ったレビューを行いたいと思います。

 

講義刑法学・総論 第2版

講義刑法学・総論 第2版

 

 ワイは不世出の井田刑法学ファンですので(当社調べ)、買って即座に旧版と照合作業を行うべく、カフェで三時間同じような本を2冊並べてにらめっこしている変人になってきました。

判例の追加等瑣末な追加変更を除き、観測できた範囲で変更された点は以下の通りです(頁は第2版のもの)。疲れました。

 

  • 8pコラム挿入
  • 14p注17変更
  • 26pコラム挿入
  • 31p3行目~13行目挿入
  • 43p3行目~6行目挿入
  • 52p下3行挿入、53p注18に挿入
  • 59p5行目~10行目改変
  • 67pコラム挿入
  • 71pコラム挿入
  • 92pコラム挿入
  • 101pコラム改変
  • 117pコラムに判例追加
  • 125p1行目~9行目
  • 132p~145p法的因果関係書き換え
  • 145p~146p1総説書き換え
  • 147p微妙に書き換え
  • 157pコラム挿入
  • 186pコラム追加的改変
  • 198pコラム挿入
  • 203pコラム挿入
  • 210p~211p書き換え
  • 218pコラム挿入
  • 223pコラム挿入
  • 226p17行目~22行目追加
  • 228p最終行~229pカッコ書き追加
  • 239pコラム追加的改変
  • 276p12行目~18行目説明の追加
  • 277pコラム挿入
  • 278p下から2行目~279p2行目説明の追加
  • 298p下から6行目~299p下から②行目まで挿入
  • 300p(4)「合意」と急迫性 挿入
  • 311p表の追加
  • 312pコラム挿入
  • 314p9行目~17行目挿入
  • 320p~4 量的過剰と行為の一個性・複数性 挿入
  • 334p10行目~14行目挿入
  • 338p6行目~339p2行目挿入
  • 343p~(3)最高裁判例 舞鶴事件と東大ポポロ事件の順番入れ替え
  • 360pコラム挿入
  • 365pコラム下から4行 追加
  • 368p8行目~370p書き換え・追加
  • 383pコラム挿入
  • 393pコラム挿入
  • 395p1行目カッコ書きからコラムまで挿入
  • 401p下から1行目~402p下から9行目まで挿入
  • 413p11行目~19行目まで挿入
  • 428p13行目~429p5行目まで挿入
  • 452pコラム挿入
  • 458p9行目~459p5行目まで挿入
  • 498pコラム挿入
  • 506pコラム挿入
  • 510pコラム挿入
  • 512pコラム挿入
  • 514p下から5行目~516p6行目まで追加的改変
  • 517p7行目~下から3行目まで追加
  • 518pコラム挿入
  • 521p下から8行目~525p10行目まで追加的改変
  • 527pコラム挿入
  • 528p13行目~529p下から10行目まで改変
  • 544p7行目~545p挿入
  • 552p下から13行目~下から1行目まで追加
  • 560pコラム挿入
  • 563p下から7行目~564p11行目まで追加
  • 564p下から3行目~565p11行目まで追加
  • 574p3行目~下から9行目まで追加
  • 585p13行目~586p11行目まで追加
  • 589p下から8行目~下から5行目変更
  • 605p下から1行目~606p下から6行目まで追加
  • 609pコラム挿入
  • 611pコラム挿入
  • 613pコラム挿入
  • 617p7行目~13行目変更
  • 624pコラム挿入
  • 625p下から9行目~626p下から4行目まで追加的変更
  • 626p下から2行目~634p下から14行目まで追加的変更
  • 637pコラム挿入

大きな変更点としては、危険の現実化説の正面からの採用、過失の共同正犯の成立意義の承認、退避義務肯定論の紹介とその否定、承継的共同正犯の限定的肯定説への立場変更、中立的行為による幇助の検討、離脱による共犯関係の解消のより詳細な検討、45条後段の適用について一部変更、量刑判断の記述について(ほぼ)全面的改訂、などでしょうか。

基本的に現在の通説と乖離しないもので、そこまで驚きはなかったです。

 

上記のほか、なお書き等によるより踏み込んだ説明が多く見られたので、そこのところも井田刑法学を理解する上でわかりやすくなったのかなと思います。

 

ともあれ、学部生のころからずーっと井田刑法で勉強し司法試験までやった者として、この大改訂は非常に喜ばしいと共に、全国のロー生はその手に持っている基本刑法ではなく、さっさと井田講義刑法学を読むべきだとあらためて強く感じた次第です。

 

短いですがこの辺で。

 

欅坂46「不協和音」とデモクラシーにおける「孤立した個人」

全員が見捨てているんだから私がやるしかない。

ポリュネイケースは完全に一人になってしまっている。私が埋葬しないで誰が埋葬するのか。

 

―木庭顕『誰のために法は生まれた』254頁 

 

www.hmv.co.jp

え~~こんばんは。

きょうは最近でたコバ先生の大名著、『誰のために法は生まれた』のレビューをかましていきたいと思います。

 

この本はコバ先生が5日間にわたって桐蔭学園の学生たちに対し行った特別授業の内容がもとになっています。

全五回の内容は以下のようになっています。

第1回:法はどちらの側にある?‐『近松物語』

第2回:個人と集団を分けるもの‐『自転車泥棒

第3回:徒党解体のマジック‐プラウトゥスの喜劇

第4回:見捨てられた一人のためにのみ、連帯(政治、あるいはデモクラシー)は成り立つ‐ソフォクレスの悲劇

第5回:日本社会のリアル、でも問題は同じだ!‐日本の判例

 

第1回と第2回はそれぞれ『近松物語』、『自転車泥棒』の映画を学生に見てもらったうえコバ先生がソクるという内容、第3回と第4回はローマ喜劇、ギリシャ悲劇を読んでもらったうえコバ先生がソクる感じです。いずれも学生はとても楽しそうで、よかったです(小並感)。

第5回は中高生相手に判例2つ読んできてもらうという血も涙もない感じ(しかもそのうち一本は占有訴訟に対して本権反訴を許容した例のアレ)で、それはそれでよかったです(コナミ)。

 

わたしはなんならこれに登場した映画や喜劇等は全然見たことがなかったのですが(判例はもちろん知ってたけど)、そんなわたしのような「え~~近松物語なんてみたことないよ~~~」という人でも大丈夫、いずれもコバ先生書き下ろしの詳しめなあらすじがついているので問題なく読めます(ただ現物はちゃんとみたりしろよ、とは書かれている)。その証拠に、わたしはこの本を読んだだけで茂兵衛になりたいと思い、アンティゴネーにあこがれ、そしてフィロクテーテースに涙を流しました。

 

コバ先生を待つまでもなく、一応法律を勉強している身のワイが一番、切実に大事だと思っていることで、かつ本書のテーマでもあるのは以下のようなものです。

以下に見るように政治や法はこの自由のために存在するから、reciprociteのさまざまなメカニズムに苦痛を覚える、苦痛を覚える人のその苦痛を理解する、ことができなければ政治も法も全く理解しえない。集団によって抑圧される個人の苦しみに共感しうる想像力を持たない人は法律学の学習も諦めた方がよい。

―木庭顕『新版ローマ法案内』9頁

  みなさんは、法律とか人権とかデモクラシーとか、なんのためにあるのだと思いますか?これらの内容を省察し、厳密にその実現の条件を探る、高度な知的営為が積み重ねられてきましたが、人々はいったい何を問題と感じ、何に立ち向かっていったのでしょうか。

 この授業では、まずその問題のことを知ってもらい、驚いてもらいます。それはある切実な、切迫した問題です。

 でも、他の人の切実な苦痛に共感できなければ問題を理解することができません。共感するためには豊かな想像力が必要です。…

―木庭顕『誰のために法は生まれた』まえがき

私の授業では、頭を動かすことはそんなに大事なことではない。それより大切なのは、感じること、直感することだ。どうしてこうなっているのかなあ、ここで身を投げ出すってどういうことかなあ、とかですね。そして、こういうのは苦しいな、嫌だな、とその人の苦痛に共感する想像力がないと、何が問題化がつかめないね。これをプロの法律家はだんだんできなくなる。

―木庭顕『誰のために法は生まれた』68~69頁

 本書では徹底して「完全に孤立した個人」(茂兵衛、アントニオ、アンティゴネー、フィロクテーテースなど)に焦点が当てられ、そのリアルな苦痛に共感し、そしてその個人を救い「集団」を解体する営為を、文芸作品を素材にしつつ、先生と学生の対話を手掛かりに、目の当たりにすることができます。

 

野暮ではありますが、この本の実践的な狙いは、紹介される様々な文芸作品に出てくる「完全に孤立した個人」に「真摯に」共感する精神を本書を読み多くの人々が共有することで、まさにデモクラシー存立の基礎が涵養されることにつながるというものでしょう。したがって、ワイが本書をこうしてブログに紹介し、みなさんに読んでもらおうとしているのもその一助になればと思っているからです。みんなホント黙って読んでください。

 

ところで、本エントリ―の題名は「欅坂46「不協和音」とデモクラシーにおける「孤立した個人」」になっていますね。忘れてました。

みなさんは欅坂46「不協和音」を聴いたことはありますか?かなり有名な曲なので一度はあるかと思います。

www.youtube.com

歌詞全文はこちら

www.uta-net.com

この曲にはまさに、「孤立した個人」が描写されているといってよいでしょう。

まわりの誰もが頷いたとしても 僕はYesと言わない

絶対沈黙しない 最後の最後まで抵抗し続ける

叫びを押し殺す 見えない壁ができてた

ここで同調しなきゃ裏切り者か 仲間からも撃たれると思わなかった

 このように抵抗する人に心から共感することができますか?「事情次第」「迷惑さえかけていないのであれば」「変わり者めが」みたいに思っていませんか。事情を抜きにして、迷惑がかかることを抜きにして、そこまで追い詰められた、しかしかけがえのない何かを守ろうとする個人の立場に、なお共感を向けることは可能だと思うのです。

 

ワイは本書を読んだあと、平手友梨奈さんがアンティゴネーかと思いましたし、なんなら茂兵衛かと思ったくらいです。

本書でのコバ先生と学生のやり取りを見ておきましょう。

だけどアンティゴネーのほうはどうだろう。これはさすがに生きているんだから、集団を作っているかな?

―いや作っていないです。

どうしてだろう。

ー同じ考えを持っている人がいない。

すっばらしい。Szさんがさっき先回りした点だけれど、このことはすごく重いことだ。気が付いたかどうかしらないけれど。

 アンティゴネーの考え方の特徴は、他の全員の考え方と自分は違っているだろうと思っていることだ。迎合しない。絶対にしない。国の命令が出ていても自分の考えをあらためない。…

239頁

 アッッッッッッ!!!!!!これどこかで見たことある!!!!!!!!!入江意見や!!!!!!!!!!!!!!!

moominpapa.hateblo.jp

すみません、興奮してしまいました。

 

ああ 調和だけじゃ危険だ

ああ まさか自由はいけないことか

人はそれぞれバラバラだ

何か乱すことで気づく もっと新しい世界

 ここで述べられている「調和」「乱す」というのはそれぞれ、徒党の論理とそれに対抗する個人を指しています。これはもう間違いありません(大胆な攻め)。

人はそれぞれかけがえのない個人であり、我々はそれぞれ互いにかけがえのない関係にある。「もっと新しい世界」というのは、そのような”かけがえのなさ”に気付いた上での「孤立した個人の連帯」、そしてデモクラシーの存立を表わしていると読むのは完全に許されているといっていいでしょう(さらなる攻め)。秋元康先生は天才です。

 

 

さて、脈絡なく書きましたが、正直なところ中身にいちいち踏み込んでレビューをするのはそれこそ野暮であり、本書が伝える法の精神が単純化して受け取られるおそれもあります。なので、あえて踏み込みませんでした。

 

ただ、ワイのこの本をみなさんに読んでほしいという熱量はちょっとは伝わったでしょうか。本当にみんなに読んでほしいです。頼む。いらん本読んでる場合じゃないでホンマ。

 

~fin~

 

 

 

アンドゥムルメステール入門!まずはこれから!

え~~皆さんこんばんは。

今日は、「アンドゥムルメステール入門!まずはこれから!」と題しまして、安藤馨先生の論文や本を読みたい、でも難しそうだなあ、何から読めばいいのかなあというような全国8000万の悩める子羊たちに、不肖わたくしが男一匹立ち上がったというわけです。

 

それでは、さっそく始めましょう。

 

まず、安藤先生の文章にスムーズに入門するには、安藤先生の思想的立場をある程度踏まえておかなければいけないでしょう。たとえば、功利主義、物理主義、規範的排除的法実証主義、道徳実在論、外在主義、態度的快楽説、etc...

 

とりわけ、安藤先生よりバキバキな功利主義者は今日本ではいないと思うので、みなさんはこれから「功利主義者といえば?」という質問に対しては、ベンサム、ミルというありきたりな回答ではなく、「安藤馨先生!」と元気よく答えましょうね。

 

話がそれましたが、安藤先生のある種なじみのない立場を知るには、『法哲学法哲学の対話』に収録されている米村幸太郎先生の「少し離れたところからの眺め――≪異世界通信≫としての対話」から入るのがよいでしょう。

 

法哲学と法哲学の対話

法哲学と法哲学の対話

 

 

もっとも、これだけでは足りないので、RATIO(6)所収の安藤馨「あなたは『生の計算』ができるか?--市民的徳と統治」がわかりやすく、かつ明確に安藤先生の立場を表しているでしょう(もっとも、脚注になると本気モードになっているので、最初は脚注は読まない方がよいかもしれない)。 

ラチオ06号

ラチオ06号

 

 読みたくなると思うので、冒頭の文章を引用します。

「人の生命は地球よりも重い」とは巷間よく言われるところではあるが、耳にするたびに「でもひょっとすると木星よりは軽いのではないか」といった問いを思わず発しそうになる。或いは、「地球の全体には人が含まれるのだからもし人の生命が地球上の人体と同一の時空間に位置するのであれば『地球よりも重い』は意味をなさないのではあるまいか」とか「人の生命の重さというのは生きている時の人体の重さから死んだときの人体の重さを差し引けば宜しいのですか」といった、相手を怒らせそうな疑問がつい口をついて出そうになるし、実際出たことがある(そしてなるほど確かに相手は腹を立てるのだが)。しかし、これらの問いとそれに対する人々の反応は重要な意味を持っている。というのも、「重さ」が文字通り「質量」として受け取られた時にそれを不適切なものとみなすとはいえ、比喩的にないし類比的に用いられた際に「重さ」は明らかに比較可能でかつ集計可能な何事かを指し示すために用いられるからである。…

 どうだろう、読みたくなったんではないでしょうか。

あと比較的読みやすくかつ安藤先生の立場が分かりやすいのは、「幸福・福利・効用」や「功利主義からサンデルまでの長い話」、「アーキテクチュアと自由」、「功利主義と人権」、「統治と監視の幸福な関係」あたりでしょうか。これらのうち2つくらい適当に読むと良いでしょう(たぶん)。

 

自然主義入門やメタ倫理学入門、分析哲学入門などで入門しまくっておくのもいいですが、並行して、もしくはむしろ先に、論文を読み始めるほうが(研究者またはその卵のようなプロではない)我々にとっては楽しくなってくるのでよいと思います。

 

上のような(安藤先生の文章の中では)簡単な部類に入ると思われるものを読んだら次は、読みやすさ中レベル(わたし調べ)の論文に入っていきましょう。

わたしが独断と偏見で分類した読みやすさ中レベルの論文は以下の通りです。

「統治理論としての功利主義」/「応報主義と帰結主義の相剋」 

功利主義の逆襲

功利主義の逆襲

 

 「世代間正義における価値と当為」 

グローバル化のなかの政治 (岩波講座 現代 第4巻)

グローバル化のなかの政治 (岩波講座 現代 第4巻)

 

「租税と刑罰の境界史――法の諸モデルとその契機」 

現代租税法講座 第1巻 理論・歴史

現代租税法講座 第1巻 理論・歴史

 

 「功利主義者の立法理論」 

立法学のフロンティア〈1〉立法学の哲学的再編

立法学のフロンティア〈1〉立法学の哲学的再編

 

 「法と危険と責任と」/「団体が、そして団体のみが」/「最高ですか?」

正直今書いていて「急にレベルあがっちゃったな」と思いました。でも大丈夫、大丈夫です。なぜならおもしろいので。

このなかでわたしが好きなのは、「そぜけい」、「ととと」とかですかね。

 

これらを読み、いよいよアンドゥムルメステールの一員となった君たちは、ついに読みやすさ上級レベル(わたし調べ)へと突入していくのがよいでしょう。

「制度とその規範的正当化」

「現代法概念論の諸相」

「規範的談話の意味論」

「メタ倫理学と法概念論」

帰結主義と『もしみんながそれをしたらどうなるか』」

「現代自由意志論の諸相」

「集団的行為主体と集団的利益」

「『規範と法命題』-行方を訊ねて」

「道徳的特殊主義についての短い覚書」

等々です。「いや、タイトル急にかっこよくなり杉内…」と思いましたか?わたしは思いました。

このなかでわたしの好きなのは、「せいきは」「だんいみ」とかですかね。

 

 

まあ、ここまで滔々と適当に書いてきましたが、ぶっちゃけ結局のところアンドゥムルメステールの聖書こと『統治と功利』を最初から読み始めてもいいと思います。 

統治と功利

統治と功利

 

 

さあ、これを読んだあなたも、今日から安藤馨先生ライフをレッツエンジョイ!!!!!最大多数の最大幸福を目指そう!!!

 

~FIN~

 

写真撮影は「検証」か?

刑訴の話です。興味ない方はお帰りください。

 

また、書く前にすでにめんどくさくなってきたので、下調べや教科書等のリファー、条文摘示は極力なしでいこうかと思います。

また、当然ですが、強制処分たる性質を有さない写真撮影も事案との関係ではあるかと思いますが、以下で想定しているのは強制処分たる性質を有する写真撮影のみですのであしからず。(なお、以下での論述に関わりますが、細かいが本当は「強制処分たる性質を有する写真撮影」ではなく「強制処分性が問題となるような態様で行われる写真撮影」と書きたい)

 

 

写真撮影は「検証」か?という質問に対し、(「押収」の場合や「捜索」の場合もある、という返答をするちょっとめんどくさい人を除けば)YESと答える方はそれなりに多いのではないかと思います(わたくし調べ)。

 

しかし、これはワイの持論なのですが(それゆえ畢竟独自の見解なのですが)、写真撮影は「検証」ではない、と言いたい(かってにしろ)。

 

 

司法試験との関係で有名なのは、捜索差押に伴う写真撮影の可否でしょうか。

まず、その論点では強制処分法定主義が問題となっているのか、それとも令状主義が問題となっているのか、どっちなんでしょうか。(司法試験受験後と思えない問い)

 

令状主義の問題であると答える場合、論理的にいって強制処分法定主義は問題にならない、それはクリアしていると答えることになるのかと思います。

そして、少なくない方々は、これは令状主義の問題である、と答えるのではないかと思います(ワイ調べ)

判例は、捜索差押に伴う写真撮影を、事案との関係によりますが、捜索差押令状に付随する効力により説明していたかと思います。それゆえ、令状主義の問題であると答えるのかもしれません。

 

 

では、強制処分法定主義はクリアしているのであれば、その「特別の定」はどこに求めればよいのでしょうか。ここで、表題の問いにつながります。

写真撮影が「検証」であれば、当然「検証」の根拠規定が「特別の定」になろうかと思います。しかし、そうであれば、捜索差押に伴う写真撮影は検証令状が必要になるのではないでしょうか。

この点、捜索差押がなされるのであれば、検証による法益侵害が既に包含されているとして、別途検証令状は不要なのだ、というような反論があるのかもしれません。

なるほどそうなのかもと思う反面、冒頭で若干述べた、写真撮影には「検証たる性質」がある場合や、「捜索たる性質」「押収たる性質」の場合がある、というような話が無意味になるのではないでしょうか。また、法が類型的に捜索差押と検証を別途規定したことと正面から抵触することになる解釈論にはならないでしょうか。

 

ここでワイが言いたいのは、受験生おなじみの「写真撮影は検証たる性質を有する」ということと、「写真撮影は検証である」ということはイコールではないのではないかということです。

つまり、事案との関係で留保が必要な場合もありますが、「写真撮影は検証それ自体でなく、検証に「必要な処分」である」と理解しておきたいのです。

 

 

強制処分は、強制処分法定主義の要請ゆえ「特別の定」が刑訴法規内に必要な一方、任意処分であっても法律の留保原理から法律の根拠は必要であり、その根拠規定は197条1項になるかと思います。

そうすると、「必要な処分」として111条1項が規定されているのは、197条1項の任意処分として説明ができないような場合、つまり強制処分の場面が包含されていると思われます(鍵を壊すなどは強制処分性があるのではないでしょうか)。したがって、「必要な処分」を定めた111条1項などは、197条1項但書をうけた「特別の定」としての役割を有しうることになります。

(上記アイデア判例と抵触するかもしれませんが、判例の結論を捜索差押に伴う写真撮影を「必要な処分」として説明を組み替えることは可能かと思いますし、そうでなければ、強制処分性をどう考えているか定かでない判例の方がおかしくね、というのが私見となろうかとおもいます)

 

正直どうでもええやん、って言われるとまあそうなんですが、試験との関係では、もしかしたらそういう細かい部分は書かなくても良いとも思いますが、仮に書くのであれば、強制処分法定主義をクリアする際の条文摘示が「検証」それ自体の規定をあげるのかそれとも「必要な処分」を規定した111条1項をあげるのかが変わろうかと思います。

 

令状裁判官が審査し許可した侵害法益とことなるヤツを撮影するのはダメやで、って部分はそれこそ強制処分法定主義をクリアした後の、令状主義プロパーの問題として説明ができます。

また、「押収たる性質」や「捜索たる性質」を有する写真撮影も、押収それ自体や捜索それ自体ではなく、あくまでそれらに「必要な処分」として説明ができるかと思います(準抗告の可否についても然り)。

上記は捜索差押に伴う写真撮影を念頭に置きましたが、それ以外の、捜索差押を伴わない、しかし強制処分性が問題となるような態様で行われる写真撮影の場合も同様です。写真を撮る捜査官が、カメラを通さず、五感の作用を用いて行う対象の把握こそが検証であり、撮影それ自体は、その把握結果を保全するための「必要な処分」ということになります。

 

 

以上です。

 

 

 

 

 

 

「「結論の妥当性」についてのメモ」についてのメモ

moominpapa.hateblo.jp

 

これに関してツイッターで面白いやり取りがあったので、載せておきます。

言わずもがなではありますが、ワイの発言は畢竟独自の見解ですのでそのように。

 

【やり取り①】

ワイ:法の認識の順序として、細かな部分ではなくフラーの挙げる徳性のようなものがまず先に認識されるあるいはされないということになるのかな

 

?:ある法が明晰性等を判断するためには、その法の個別の条文や語句を材料にして、まずはその部分の明晰性等を判断することになるけど、しかし、ある部分が明晰でないとしても、他の部分を読みあわせれば、全体としては明晰だということもありえ、しかしその他の部分が明晰かはさらに他の部分も参照しなけ(…以下循環)(カッコ内はワイ)

 

ワイ:法の明晰性は法的価値ですが、その有無の判断において法以外から判断材料を供給してくることは排除されないのでは?何らかのインクの染みについてこれこれこういう風に解釈する(そしてそれは「明晰」であると考える)という我々の信念(そしてそれは世界の事態の一部)を参照しつつの判断をするような

 

?:当初のリプライの趣旨から変わるけど、その明晰性に関する信念って、法文に限らず、様々な文章に共通するか、あるいは、そういう信念がジャンルごとにあるとしても、ジャンル間で相互に影響を与え合うものだろうから、法に閉じたものではいられなくない?

 

ワイ:例えば刑法における責任能力の有無の判断は生物学的・心理学的要素を考慮する必要があり十分専門家の判断を尊重する必要があるものの究極的には裁判所の評価に委ねられているように、法の明晰性は変わらない一方判断資料の変化・進歩により認識のアプローチは変わる、ということはあるでしょうね

つまり実際の法の明晰性の具備の有無と、我々の認識に齟齬が生じることはあり得るでしょう(そして我々はそれに気づかない)ということっす。 もしくは法の存在論自体に関わりますが、法の変遷により法内部での法的価値の変遷もあるんじゃないですか

 

?:なるほどね、認識論上は閉じたものではいられないけれども、存在論上は閉じたものでありうる、ということか。両者の相関性も問題になるし、明晰性に絞れば、この概念自体が認識と深く相関している気もするので、この点も論点になるけど、でも発想としては面白い。安藤先生がどう処理するか待ち遠しい。

 

ワイ:(深く頷く)

 

 

【やり取り②】

ワイ:法の認識の順序として、細かな部分ではなくフラーの挙げる徳性のようなものがまず先に認識されるあるいはされないということになるのかな

 

??:結局、法解釈における「結論の妥当性」は「L.L.フラーのいう法の徳性を備えていること」に尽きる、ということ?

個人的には「すわりのよさ」みたいなより実体的あるいは道徳的な価値の吟味を含むように思うけど(排除的法実証主義をとるかどうかで決着かもですが

 

ワイ:仮に解釈された法の適用後の世界の事態の道徳的評価を含む概念であるとすれば、排除的法実証主義かどうかで変わると思いますが、??ニキが挙げるような「すわりのよさ」的な解釈時の吟味は、よく分析すればフラーの徳性のいずれかを満たすかを吟味してることに還元されるのではと考えています

実況!パワフル司法試験

え~みなさんこんにちは。

 

なにはともあれ司法試験を終えたので、記憶が残っているうちに試験中感じためちゃくちゃどうでもいいことを思いつくままに残しておこうかと思います。ちなみに試験自体へのアドバイスや感想は一切ないのでそのように。

 

 

・試験地はマイドーム大阪だったのですが、これどう思います?

 

・ ワイはすぐ近くのアパホテルを使いました。利便性がよく隣にやよい軒があるので、受験生におススメです。アパホテル最強説 思想信条の観点から使わない人もいるかもしれませんが

 

てか、あの貰えるペットボトルの水に社長の顔をのっけるのはどうなんだ。「私が社長です」←うるさい でも結構あの社長嫌いじゃない…部屋に社長の本が置いてあってパラ見したんですけど、会長がバキバキの右翼だからこれもかなと思いきや結構普通の自己啓発本って感じでワイの中でちょっと好感度があがってしまった

 

 

・前日夜、初日夜、3日目夜とやよい軒を利用したんですけど、マジで司法試験受験生に占拠されててオモシロかった 空間に占める法律力(リーガル・パワー)の値がすごく高い気がした

やよい軒でのワイのおすすめは野菜たっぷり肉野菜定食です。いま定食と打つときに抵触と打ち間違えました パソコンが法律に飼いならされている

とろろは150円(高い、もっと安くしろ)ですけど毎回つけてました。やよい軒ってご飯お替り自由じゃないですか、生卵をつけるのはリスクがあるので受験生はとろろを注文しましょう。ご飯は誤判と打ち間違えた

 

 

・模試の時机がガタガタしまくるやつでふざけんな、いい加減にしろとか思ってて危惧してたんですけど、当日の机は全然違うやつでガタガタしなかった 受験生は安心してください

初日着席するとき隣の人に「よろしくお願いします~」とかいって挨拶しといた これによりなんかリラックスして試験に臨むことができるのである(受験豆知識)。周り友達ばっかりでなんも緊張しなかったけど

 

・試験開始一分前に試験監督とか監督補助員が、一番前の真ん中にいるボス監督みたいな人に向かって、人差し指を立てて一斉に合図を送るんですけど、毎度毎度それが面白くて笑いそうになっていた これは受験生あるあるではなかろうか(ない)

てか試験中は試験室内で水とか飲んでいいのに、試験前は飲めないのなんなん?著しく合理性を欠くのではないか?

 

 

ツイッターにも書いたんですけど、中日は昼にドトールで勉強してたんですけどコーヒーがクソマズだったうえにそのあと入ったつけ麺屋で上地雄輔のミツバチがかかっててさんざんだった あんなん聴いてるヤツと友達にはなれそうもない あとエグザなんちゃらとか三代目なんちゃらかんちゃらとか あと患者に8も

 

・やっぱ受験生たるもの、「平成30年度司法試験試験場」みたいな看板の前で写真とりたいじゃないですか これは有益情報ですが試験後には看板は撤去されてるので、撮りたい人は朝会場入りするときに撮りましょう。

 

 

・万年筆を買ったにもかかわらず試験は結局SARASA0.5で臨んだ。なんてこった

ワイはSARASA原理主義者なので、ジェットストリーム派の人は今すぐこの記事を閉じるか、SARASAに変更してください SARASAは神

 

 

法哲学は司法試験に一ミリも役にたたない

 

以上です。