ワイワイブログ

畢竟独自の見解

「正は不正に譲歩する必要はない」の意義について

え〜〜〜みなさん,こんばんは。

お元気でしょうか。わたしは流行に乗り遅れないタイプなので,無事インフルに罹患していましたが今は元気にブログを書いております。ところで,「罹患」ですが,大学何回生かまで「らかん」と読んでいました。閑話休題

 

 

さて,正当防衛(刑法36条1項)について勉強した方ならこの命題を一度は見たことがあるだろう。

「正は不正に譲歩する必要はない」

この命題を指して「法確証原理」と呼ぶこともあるが,ワイはあまりこの呼称を正しいものだと考えていないため,以下では単に「当該命題」と呼称する。

 

当該命題は特に退避義務の否定であったり,緊急避難と違い正当防衛の成立要件に補充性が課せられていないことの実質的な理由となっているといえる。

このような正当防衛成立要件と当該命題の関係性からすると,当該命題は「正当防衛」制度の実質的な正当化根拠であり,正当防衛の成否について内在的な制約根拠となっていると考えるのが自然だろう。

当該命題を持ち出して正当防衛の成否や侵害退避義務を否定することは,結論の先取りにすぎないとされたり,一般的に否定するのは無理だという批判はS伯先生やY口先生,H爪先生などが行なっており,それ自体はまあまっとうな批判だろうなあと思う反面,個人的には議論の前提として以下の点が気になっている。

 

・「法は不法に譲歩する必要はない」=「正は不正に譲歩する必要はない」?

すなわち,当該命題を「法は不法に譲歩する必要はない」と意味内容が同じものとみなし,あまり両者の違いを意識していないと思われる点である。

仮に両者が一緒だとすれば,当然結論先取という批判は妥当するだろう。

このような取り扱いは,「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。」の「不正」の文言が,違法という意味で解釈されていることに起因するかもしれない。

しかし,ここでは正当防衛制度の正当化根拠としての命題の話をしているのであるから,「文言の「不正」が違法と解釈されている以上,「正は不正に譲歩する必要はない」も「法は不法に譲歩する必要はない」と解釈していいだろう」とすることは逆転現象もいいところであり,いわば風呂桶の水と一緒に赤子を流すようなものである(言いたいだけ)。

※実際には,当該命題のヒストリカルな淵源から,云々した結果らしい(ドイツのBernerがどうのこうの)。しかし,「正は不正に譲歩する必要はない」だろうが「法は不法に譲歩する必要はない」だろうが,現在の法実務や法秩序にとりうけいれがたい命題であれば,そのことのみを理由として排除すべき命題なのであるから,措く。

 

 

では,当該命題について以下のように考えたらどうなるだろう。

・「(道徳的)正は(道徳的)不正に譲歩する必要はない」(以下,「道徳命題」と呼称)

※道徳とは功利主義道徳のことであり,また,法規範と道徳規範は相互参照がありえつつも規範領域において別個に存在するということは前提とする

 

道徳的に正しい行為であれば,道徳的に不正な行為に対し譲歩する必要はなく,むしろ叩き潰すのが功利主義的であろうから(というより,もはや叩き潰さなければ道徳的に正しいとは言えない可能性すらある),道徳命題自体は道徳的に支持しうる命題と言えよう。それ以上に,仮にこの道徳命題を正当防衛の正当化根拠とするのであれば,侵害退避義務の否定にすら繋がりうる(?)(もっとも,命題は「譲歩すべきでない」ではなく「譲歩する必要はない」であるから譲歩してもよいのであり,この点言い過ぎ疑惑はあるので気にしないでほしい)。

また,前提より,道徳規範により与えられる道徳的評価は法的評価と独立に存在しうるのであるから,道徳命題を正当化根拠・内在的制約根拠とした解釈については結論先取の誹りは当たらない。

 

さらに,道徳命題が正当化根拠なのであれば,補充性が課せられていないことの説明も容易だろう。

 

また,いずれの行為が道徳的に正しいかは,当該行為のみならず,行為者の性質等も加味し判定されるのであるから,両者において問題となる被侵害法益も当然考慮の対象に入ってくる。

社会的法益や国家的法益のための正当防衛が認められるのか(「自己または他人の権利を防衛するため」の文言があることに由来する論点)については,次のように応答することができるだろう。

すなわち,生の功利主義はそのような社会的法益,国家的法益を保護するための「正当防衛類似行為」を肯定するかもしれない。しかし,我々が支持する間接功利主義は,統治者の最適動機群や最適規則体系に行為主体相関的な道徳判断を許すのであるから,より善い道徳状態の達成のために使用される法制度の在り方として,ただでさえ功利計算が死ぬほど苦手な我々に「社会的法益,国家的法益 」の保護を許容するように仕向けることはしないのではないか。

換言すると,「社会的法益,国家的法益」を被侵害法益として正当防衛の成立を認めるような法制度を策定すると,それにより間違った防衛活動(行為者は「社会的法益,国家的法益」を守っていると思っているが,客観的にはそれに反するような事態が生じている)が多発しかねず(聡明なブログ読者の諸君であれば,現在の社会を見渡せばそのような想定があながち間違ってはいないことはお分かりの通りだろう),道徳的により善い事態の達成が図られないことから,「自己または他人の権利」に限り正当防衛の成立を認める,とあえてすることがむしろより善い結果を導くと考えることができるのである。

 

さらに,緊急救助事例(他人の権利防衛の事態)もわりとすんなり説明がつくだろう(説明省略)。救助者と被侵害者の,侵害者に対する反撃行為の際の道徳的地位はあまり変わらないだろう。

 

 

ちょっと飽きてきたのでまた追記します。

 

新年のご挨拶と故意責任の本質

え〜〜〜〜みなさまあけましておめでとうございます。

今年も余裕かまして生きていきたいと思います。

 

 

 

さて,

故意責任の本質は,規範に直面しつつ反対動機が形成可能であったにもかかわらず,あえて行為に及んだことに対する道義的非難である。

 

微細な点で異なれど上記のような論述は市井に広く流布しているといえよう。本記事では上記論述にたいする簡単な批判的検討を行う。

 

ーまず,「故意責任」という用語を刑法の論述として使用する場合,注意が必要だろう。

「故意責任」は一般的に使用される用語であるが,刑法においては故意が違法要素なのか,責任要素なのか,それとも両方(?!)なのかについて大きな対立がある以上,故意が責任要素であるという立場を表明するような記述をするからには,一定の立場決定を伴っていることを自覚すべきだろう。ちなみに井田説は違法要素のみとするものである。

 

 

ーまた,「規範に直面」とはいかなる場面だろうか。

以後の記述でよく見られるのは,”一般人には規範は構成要件という形で与えられている”みたいなものだったと記憶している。

このような記述がある反面,「法の不知は恕せず」という法格言もあるように,違法性の意識は一般的には犯罪の成立を左右しない。

そうであるとすると,ここでの「規範に直面」とは額面通り,ある行為の際,行為者が,「あ〜,刑法が「〜すべきでない」と私に命じていることだなあ」と認識するということを意味すると解することはできない。

むしろ,「道義的非難」という言葉が使用されていることからすれば,ここでの「規範に直面」とは,「あ〜,道徳が「〜すべきでない」と私に命じていることだなあ」と認識することを意味すると解さざるを得ないのではないか。

しかし,ここでの規範は構成要件という形で与えられているのであるから,この記述においては,刑法が構成要件を設定し,その存在により因果的に,当該構成要件の意味論的内容である命題に対応する道徳規範が創出される(もしくはこの道徳規範が,実際に国会により主権者からの命令という形で可決・施行され存在する刑法(とその内容である構成要件)の存在に随伴し存在する)という前提があると思われるのではないか。

 

仮にこのような前提が上記の論述に存在しているとすれば,直ちに以下の点が問題になるだろう。

すなわち,上記の前提が正しいとすれば,ある刑法的な故意判断は必然的に道徳的判断を伴うが,amoral legalistの存在可能性を承認しうる以上,そのような判断の必然性は破られうるだろう。

また,宗教的義務と道徳的義務の真正な衝突の場面と思われるイサクの捕縛Akedat Itzchakの場面を想定せずとも,法的判断と道徳的判断が衝突する場面は我々の多くが経験してきていることだろう。

 

 

ーさらに,「反対動機が形成可能であったにもかかわらず」も問題となる。

おそらくここでは,ある行為者のある行為に対し責任を問う際の必要条件としての他行為可能性があったこと(そして前提として自由意志に基づく行為であること)が想定されているのでしょう。

すなわち,ある行為者が,ある人を刺し殺してやろうとナイフを振り上げた際,「やっぱ殺さんとこ」という「反対動機」が形成可能だったかどうか(そしてそのような反対動機が実際に形成されれば,反対の行為(ここではナイフで刺し殺さないこと)がなされていた)という検討が,責任追求に際しての実質的な理由を形成しているのである。

しかし,このような考えは以下のような問題点を含んでいるように思われるため,注意が必要だろう。

すなわち,ある行為に対する動機が(真摯な判断によって)形成されたとしても,他の異なる動機によって,その動機が行為者を実際に行為に及ばせる因果的な力が切断されることは合理的に考えうる。たとえば,私が「ケンタッキー食べたいな〜」と真摯に判断し,ケンタッキーを食べに家を出るという動機を形成したとしても,「やっぱ金欠だったわ」とかの理由により,ケンタッキーを食べに家をでないという動機もまた形成され,後者の動機が優先された結果ケンタッキーを食べに家を出ないとしても(前者の理由がなお重みを有するとしても)それは合理的な実践的判断だろう。

また,ある判断(ここでは法的判断(とそれに随伴?する道徳的判断))をなしたとしても,そこから必然的に動機付けが伴うと想定すること自体,重大な問題を含んでいる(規範的判断に対する動機付けについての内在主義)。

さらに,そもそも,責任を問う際に他行為可能性が必要条件とすることは,近時多くの批判を受けている(むしろ,自らの行為の統御(可能性)という点での行為者性agencyこそが責任の必要条件とする説が有力であろうか)。

例えば,信号無視をして車で交差点を右折(ないし直進)し,結果事故を招いたという場面において,当該車は,右折(ないし直進)の際偶然にも左ハンドルを切れないような形で故障していたとする。この場面で運転手は右折ないし直進をしようと思い実際に行ったということには争いがなく,しかしこのような運転手に責任を問うことに問題は無いように思われるだろう。

 

 

以上の簡潔な検討からもわかるように,上記の論述には多くの(((メタ)倫理的な・法的な)重大な)問題があり,このような論述を安易にありがたがるのは,あまり望ましいことではないのだろうと思う。

 

 

以上

実況!パワフル導入修習

え〜〜〜〜みなさん,こんばんは。

なにはともあれ先日導入修習を終えたので,記憶が残っているうちに修習中に感じたどうでもいいことについてさっそく感想を書いておきたいと思います。

なお,修習の講義等への感想はあんまりないのでそのように。

 

 

・駅(和光市駅)から研修所までソコソコある。バスに乗ればすぐだけど,ワイはバスがあまり好きではない。しかし歩くのはもっと好きではないので乗る。

 

・入寮日の寮1階には先人たちが遺した物品たちが大量に置いてあり,早めについた人々はそれを我先に奪い合うのだが,なんというかこれが非常に精神的に辛かった。参加しといてなんだけど。これが理論と実践の乖離というものです。

 

・部屋はまあ思ったより普通だったが,壁が薄い点はやっぱり気になる。壁にぶつかったりしないように気を遣った。また,ランドリー室があるわけだが,ワイはあまり乾燥機に馴染みがない人生を送ってきたので,それが使えることがやや嬉しかった。

 

・毎朝講義棟の1階で出席をとるわけだが,毎回わざわざ印鑑を押させるのはなかなか大変だなあと思う。まあしょうがないのかね。朱肉の消費量どうなってんねん

 

・講義は基本的にあんまり面白くはなかった。まあしょうがない。

 

・お昼ご飯事情だけど,これが一番深刻なきがする。昼休みに食べに行くような場所も近くにあんまりないしね。ワイはよく売りに来てる松屋を利用してました。なんで松屋?入札とかしたのかな

 

・なんかみんな良いスーツ着ている気がする(しらんけど)。

 

・飲み会が多い。飲み会あまり好きじゃない人とかは大変だなあと申し訳なく思う。1月からはちゃんと運動します。

 

・体育館,滑りすぎ。スケートリンクかと思った

 

・なんかワイが尊敬すべき井田先生が講義を見学に来ていたらしい。神戸修習のクラスだったかな。本当に羨ましい上,そのクラスの人たちは全然気づかなかったらしいじゃないですか。ワイのクラスに来たら,ワイは入室1秒で気づき,挨拶に伺い,名刺を渡し,自分のブログ記事を見せ,ワイシャツにサインしてもらったはずです。なぜならワイは72期随一の井田刑法学ファンだからです。

moominpapa.hateblo.jp

moominpapa.hateblo.jp

 

・ラーメン結構食べた。樹真とか,二郎とか蒙古タンメンとかいろいろ。豚レンジャーは集合で行きます。

tabelog.com

 

・そういえば,教官が「法解釈とは...」みたいな話を始めたことがあり,椅子から転げ落ちそうになっていた(ワイだけ)。まあ色々思うところはあります。

 

・結局一度も食堂のごはんを食べなかったな。とんでんは行った。

 

・起案はまあぼちぼち。

 

・こうやって振り返るとあんまり感想がない。そこそこ楽しく過ごしたけど,やっぱり分野別に早く行きたい。自分の本もたくさん読めるしね。

 

なんかこれについて書いてくれとかあったらコメントでどうぞ。随時追記します。

 

以上

 

 

瀧川裕英『国家の哲学』ランニングコメンタリー;第1章

 

※明示的な引用とは別に、カギカッコ(「」)による引用もします。

基本的にワイが引っかかったところを紹介していくカンジなので、多分にないものねだりで「そんなの論じる紙幅なんてあらへんわ!」的なコメントになると思います。そこんところご了承ください。

 

 

第1章”個人は国家に対して義務を負うか?ー政治的責務の正当化根拠を問うー”

 

 

・まずは問題の設定。

私が本書で試みるのは、国家の存在理由を再検討し、国家の意義を解明することである。(1頁)

グローバル化の中で、振る舞いが恣意的に見える国家の存在理由を検討するようだ。

 

・2p。

ストレンジによれば、グローバル化によって、国家は退場しつつあるとしても、消滅しつつあるわけではない。言い換えれば、国家の権威は衰退しつつあるが、市場が提供し得ない基本的事柄に関してはそうではない。例えば、安全保障、通貨、法システム、インフラ整備に関しては、依然として国家は重要な意義を持つ。

これはどうなんでしょ。ストレンジを引いているからそちらに当たればいいのだろうけど、心の中のアナキャピが反応してしまう。まあ本書で論じることでもないか(知らんけど)。

 

・4p〜5p。

 本書で私は、政治的責務をさしあたり、「個人が特定の国家に対して負う責務」として捉えておく。法を守る義務である遵法義務は、政治的責務の重要な一部として、まずは位置づけておく。

一応の定義づけ。もっとも、遵法義務の存否もそもそも問題ではあるし(ワイは認めないマン)、法の存在と国家の存在の関係性もそもそも問題だと思うので、なんか一応留保が欲しかったな〜〜(無い物ねだり)。

 

・5p。政治的責務は道徳的義務とは違うものとされる。ホ〜。道徳的義務との対比軸は、①「第一に主体の面で、すべての道徳的人格ではなく、特定の政治的人間が負う義務」②「第二に対象の面で、普遍的な義務ではなく個別的な義務」(原文では「普遍的」「個別的」に強調点)。

①について、「人格」を使っているところ、これは「人間」とは異なる意味で使われている(後の文章で「人間は人格である限り、道徳共同体の一員となる。」とある)。

そもそも「人格」の存否という問題があることは注意。また、「道徳的人格」や「政治的人間」という際の「道徳的」「政治的」という語の使い方になんか違和感を感じる。ここでは道徳に適った振る舞いをするようなことを「道徳的」などと言っているわけではないよね…?

 

あと、②については道徳的個別主義(道徳的特殊主義)の存在も気になる。

ともあれ、文章から瀧川先生の道徳哲学上の立場を推認するしかないのでちょっと大変。ある程度立場を先に示して欲しいなあ。

 

 

・7p。義務と責務の区別。これは大事ですね。

あれ、てか5pの第一の対立軸は「義務」と「責務」の区別にすでに解消されるくね?(特定の)「相手方」という義務と責務の差異。う〜んわからん。

 

 

・7p。

 以上のように、政治的責務と道徳的義務は区別される。しかしながら、政治的責務は道徳的である。(原文は「政治的責務は道徳的である」に強調点)この点は誤解を生むかもしれないため、十分注意する必要がある。これが意味するのは、政治的責務は道徳的理由によって正当化されたり否定されたりする、ということである。

 逆にいえば、政治的責務は法的義務ではない。より正確に言えば、政治的責務は法的義務であるとは限らない。ある政治的責務を法的義務とするような法実践が存在する場合に、政治的責務は法的義務となる。

 ここでの「政治的責務は道徳的」という語法はわかりづらいね。ヘアを引いているので、ヘアの語法なのかな。

ところで、「逆にいえば」←逆にいえば!!!?!? つまり、瀧川先生は法的義務は道徳的理由によって正当化されたり否定されたりしない、と考えているということなのかな。

 

 

・8p。

同様に、法に従う法的な義務は、法というゲームに参加する人にとっての義務でしかない。では、法というゲームに参加することは道徳的義務か。逆に、法というゲームの部外者であることはなぜ道徳的に許されないのか。これが、政治的責務の問いである。

最後の、「これが、政治的責務の問いである。」は、本書のこれまでの書き振りからすると、限定的に読むべきではないよね。多分。

 

 

・8p。1.4.1 個別性の要請。

「...この場合に、自国Xの戦争に抵抗し他国Yを支援する義務があるといえるかもしれないが、それは政治的責務ではない。政治的責務とは、あくまで自国に対する義務である。」←自国/他国の判定はどのように行われるんだろうか?国籍法によって行われるんじゃないかと思うが、そうであれば政治的責務は法的義務から派生する形でしか存在できないのでは?って思うけど。。。あと、「支援する義務」は「義務」であってるのかな。ここは「責務」ではないんだね。同様に、「政治的責務とは、あくまで自国に対する義務である。」もそう。わからなくなってきた

定義上、義務と責務は排他的に使用されるべきように思われるのだけど、違うのかな。読んでる感じ違うっぽい。あまりここでは強く区別しないのかな。むしろ、「義務」「責務」の前につく「道徳的」「政治的」の含意による区別が意識されているっぽい。ならわざわざ「義務」と「責務」の違いを強調する必要とか、そもそも区別する理由がよくわからんなあ。

政治的義務と道徳的義務があり、政治性と道徳性はそれぞれ異なる。政治的義務の道徳的評価は可能であり、逆もまた然り。みたいな感じではダメ?

 

 

 ・9p。「他者に危害を加えない義務は、むしろ自由を促進する面を持つ。」わかるようでイマイチわからんけど、まあいいか。

 

 

・9p。「このように、自由や平等との衝突の可能性を孕んだ政治的責務が体現する価値は、友愛である。」

自由、平等、友愛といったそれぞれの価値があるという前提っぽい。そもそもそれはそれ自体で価値足りうるのか、〜的がつかない裸の「価値」とは何かという疑問はあるね。

 

 

・9p。政治的責務は一応の義務。了解。

 

 

・11p。1.5.2多元的忠誠

「忠誠の複数性」を前提にした愛国主義的忠誠の可能性はあるか。これはおもしろい問い。

 

 

・12p。 1.5.3一応の義務と熟議プロセス

「道徳的な熟議プロセスにおいて、ある行為を要求する道徳的理由が認定されると、当該行為は一応の義務となる。」

これを見るに、瀧川先生は道徳的義務は一応の義務という前提かな。ヘアとかは違うんだっけ。

と思ったら、ここからの「一応の義務」の使い方は、進行中の熟議プロセス内で認定されるものとしての義務のようだ。このプロセス的理解は知らなかった。勉強になります。

 

 

・遵法義務と遵法意識は無関係。はい。

 

まとめ

グローバル化という問題圏の存在を動機として、プロセス的に理解された一応の義務としての政治的責務(「政治的義務」ではダメなのかしら)の正当化根拠を検討するのが本書の方針、ということでいいかな。

 

 

井田良『講義刑法学総論』第2版宇宙最速レビュー

え〜〜〜みなさん、こんばんは。

本日は、出版から10年が経過し初の大改訂となった井田良『講義刑法学総論』の宇宙最速を銘打ったレビューを行いたいと思います。

 

講義刑法学・総論 第2版

講義刑法学・総論 第2版

 

 ワイは不世出の井田刑法学ファンですので(当社調べ)、買って即座に旧版と照合作業を行うべく、カフェで三時間同じような本を2冊並べてにらめっこしている変人になってきました。

判例の追加等瑣末な追加変更を除き、観測できた範囲で変更された点は以下の通りです(頁は第2版のもの)。疲れました。

 

  • 8pコラム挿入
  • 14p注17変更
  • 26pコラム挿入
  • 31p3行目~13行目挿入
  • 43p3行目~6行目挿入
  • 52p下3行挿入、53p注18に挿入
  • 59p5行目~10行目改変
  • 67pコラム挿入
  • 71pコラム挿入
  • 92pコラム挿入
  • 101pコラム改変
  • 117pコラムに判例追加
  • 125p1行目~9行目
  • 132p~145p法的因果関係書き換え
  • 145p~146p1総説書き換え
  • 147p微妙に書き換え
  • 157pコラム挿入
  • 186pコラム追加的改変
  • 198pコラム挿入
  • 203pコラム挿入
  • 210p~211p書き換え
  • 218pコラム挿入
  • 223pコラム挿入
  • 226p17行目~22行目追加
  • 228p最終行~229pカッコ書き追加
  • 239pコラム追加的改変
  • 276p12行目~18行目説明の追加
  • 277pコラム挿入
  • 278p下から2行目~279p2行目説明の追加
  • 298p下から6行目~299p下から②行目まで挿入
  • 300p(4)「合意」と急迫性 挿入
  • 311p表の追加
  • 312pコラム挿入
  • 314p9行目~17行目挿入
  • 320p~4 量的過剰と行為の一個性・複数性 挿入
  • 334p10行目~14行目挿入
  • 338p6行目~339p2行目挿入
  • 343p~(3)最高裁判例 舞鶴事件と東大ポポロ事件の順番入れ替え
  • 360pコラム挿入
  • 365pコラム下から4行 追加
  • 368p8行目~370p書き換え・追加
  • 383pコラム挿入
  • 393pコラム挿入
  • 395p1行目カッコ書きからコラムまで挿入
  • 401p下から1行目~402p下から9行目まで挿入
  • 413p11行目~19行目まで挿入
  • 428p13行目~429p5行目まで挿入
  • 452pコラム挿入
  • 458p9行目~459p5行目まで挿入
  • 498pコラム挿入
  • 506pコラム挿入
  • 510pコラム挿入
  • 512pコラム挿入
  • 514p下から5行目~516p6行目まで追加的改変
  • 517p7行目~下から3行目まで追加
  • 518pコラム挿入
  • 521p下から8行目~525p10行目まで追加的改変
  • 527pコラム挿入
  • 528p13行目~529p下から10行目まで改変
  • 544p7行目~545p挿入
  • 552p下から13行目~下から1行目まで追加
  • 560pコラム挿入
  • 563p下から7行目~564p11行目まで追加
  • 564p下から3行目~565p11行目まで追加
  • 574p3行目~下から9行目まで追加
  • 585p13行目~586p11行目まで追加
  • 589p下から8行目~下から5行目変更
  • 605p下から1行目~606p下から6行目まで追加
  • 609pコラム挿入
  • 611pコラム挿入
  • 613pコラム挿入
  • 617p7行目~13行目変更
  • 624pコラム挿入
  • 625p下から9行目~626p下から4行目まで追加的変更
  • 626p下から2行目~634p下から14行目まで追加的変更
  • 637pコラム挿入

大きな変更点としては、危険の現実化説の正面からの採用、過失の共同正犯の成立意義の承認、退避義務肯定論の紹介とその否定、承継的共同正犯の限定的肯定説への立場変更、中立的行為による幇助の検討、離脱による共犯関係の解消のより詳細な検討、45条後段の適用について一部変更、量刑判断の記述について(ほぼ)全面的改訂、などでしょうか。

基本的に現在の通説と乖離しないもので、そこまで驚きはなかったです。

 

上記のほか、なお書き等によるより踏み込んだ説明が多く見られたので、そこのところも井田刑法学を理解する上でわかりやすくなったのかなと思います。

 

ともあれ、学部生のころからずーっと井田刑法で勉強し司法試験までやった者として、この大改訂は非常に喜ばしいと共に、全国のロー生はその手に持っている基本刑法ではなく、さっさと井田講義刑法学を読むべきだとあらためて強く感じた次第です。

 

短いですがこの辺で。

 

欅坂46「不協和音」とデモクラシーにおける「孤立した個人」

全員が見捨てているんだから私がやるしかない。

ポリュネイケースは完全に一人になってしまっている。私が埋葬しないで誰が埋葬するのか。

 

―木庭顕『誰のために法は生まれた』254頁 

 

www.hmv.co.jp

え~~こんばんは。

きょうは最近でたコバ先生の大名著、『誰のために法は生まれた』のレビューをかましていきたいと思います。

 

この本はコバ先生が5日間にわたって桐蔭学園の学生たちに対し行った特別授業の内容がもとになっています。

全五回の内容は以下のようになっています。

第1回:法はどちらの側にある?‐『近松物語』

第2回:個人と集団を分けるもの‐『自転車泥棒

第3回:徒党解体のマジック‐プラウトゥスの喜劇

第4回:見捨てられた一人のためにのみ、連帯(政治、あるいはデモクラシー)は成り立つ‐ソフォクレスの悲劇

第5回:日本社会のリアル、でも問題は同じだ!‐日本の判例

 

第1回と第2回はそれぞれ『近松物語』、『自転車泥棒』の映画を学生に見てもらったうえコバ先生がソクるという内容、第3回と第4回はローマ喜劇、ギリシャ悲劇を読んでもらったうえコバ先生がソクる感じです。いずれも学生はとても楽しそうで、よかったです(小並感)。

第5回は中高生相手に判例2つ読んできてもらうという血も涙もない感じ(しかもそのうち一本は占有訴訟に対して本権反訴を許容した例のアレ)で、それはそれでよかったです(コナミ)。

 

わたしはなんならこれに登場した映画や喜劇等は全然見たことがなかったのですが(判例はもちろん知ってたけど)、そんなわたしのような「え~~近松物語なんてみたことないよ~~~」という人でも大丈夫、いずれもコバ先生書き下ろしの詳しめなあらすじがついているので問題なく読めます(ただ現物はちゃんとみたりしろよ、とは書かれている)。その証拠に、わたしはこの本を読んだだけで茂兵衛になりたいと思い、アンティゴネーにあこがれ、そしてフィロクテーテースに涙を流しました。

 

コバ先生を待つまでもなく、一応法律を勉強している身のワイが一番、切実に大事だと思っていることで、かつ本書のテーマでもあるのは以下のようなものです。

以下に見るように政治や法はこの自由のために存在するから、reciprociteのさまざまなメカニズムに苦痛を覚える、苦痛を覚える人のその苦痛を理解する、ことができなければ政治も法も全く理解しえない。集団によって抑圧される個人の苦しみに共感しうる想像力を持たない人は法律学の学習も諦めた方がよい。

―木庭顕『新版ローマ法案内』9頁

  みなさんは、法律とか人権とかデモクラシーとか、なんのためにあるのだと思いますか?これらの内容を省察し、厳密にその実現の条件を探る、高度な知的営為が積み重ねられてきましたが、人々はいったい何を問題と感じ、何に立ち向かっていったのでしょうか。

 この授業では、まずその問題のことを知ってもらい、驚いてもらいます。それはある切実な、切迫した問題です。

 でも、他の人の切実な苦痛に共感できなければ問題を理解することができません。共感するためには豊かな想像力が必要です。…

―木庭顕『誰のために法は生まれた』まえがき

私の授業では、頭を動かすことはそんなに大事なことではない。それより大切なのは、感じること、直感することだ。どうしてこうなっているのかなあ、ここで身を投げ出すってどういうことかなあ、とかですね。そして、こういうのは苦しいな、嫌だな、とその人の苦痛に共感する想像力がないと、何が問題化がつかめないね。これをプロの法律家はだんだんできなくなる。

―木庭顕『誰のために法は生まれた』68~69頁

 本書では徹底して「完全に孤立した個人」(茂兵衛、アントニオ、アンティゴネー、フィロクテーテースなど)に焦点が当てられ、そのリアルな苦痛に共感し、そしてその個人を救い「集団」を解体する営為を、文芸作品を素材にしつつ、先生と学生の対話を手掛かりに、目の当たりにすることができます。

 

野暮ではありますが、この本の実践的な狙いは、紹介される様々な文芸作品に出てくる「完全に孤立した個人」に「真摯に」共感する精神を本書を読み多くの人々が共有することで、まさにデモクラシー存立の基礎が涵養されることにつながるというものでしょう。したがって、ワイが本書をこうしてブログに紹介し、みなさんに読んでもらおうとしているのもその一助になればと思っているからです。みんなホント黙って読んでください。

 

ところで、本エントリ―の題名は「欅坂46「不協和音」とデモクラシーにおける「孤立した個人」」になっていますね。忘れてました。

みなさんは欅坂46「不協和音」を聴いたことはありますか?かなり有名な曲なので一度はあるかと思います。

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歌詞全文はこちら

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この曲にはまさに、「孤立した個人」が描写されているといってよいでしょう。

まわりの誰もが頷いたとしても 僕はYesと言わない

絶対沈黙しない 最後の最後まで抵抗し続ける

叫びを押し殺す 見えない壁ができてた

ここで同調しなきゃ裏切り者か 仲間からも撃たれると思わなかった

 このように抵抗する人に心から共感することができますか?「事情次第」「迷惑さえかけていないのであれば」「変わり者めが」みたいに思っていませんか。事情を抜きにして、迷惑がかかることを抜きにして、そこまで追い詰められた、しかしかけがえのない何かを守ろうとする個人の立場に、なお共感を向けることは可能だと思うのです。

 

ワイは本書を読んだあと、平手友梨奈さんがアンティゴネーかと思いましたし、なんなら茂兵衛かと思ったくらいです。

本書でのコバ先生と学生のやり取りを見ておきましょう。

だけどアンティゴネーのほうはどうだろう。これはさすがに生きているんだから、集団を作っているかな?

―いや作っていないです。

どうしてだろう。

ー同じ考えを持っている人がいない。

すっばらしい。Szさんがさっき先回りした点だけれど、このことはすごく重いことだ。気が付いたかどうかしらないけれど。

 アンティゴネーの考え方の特徴は、他の全員の考え方と自分は違っているだろうと思っていることだ。迎合しない。絶対にしない。国の命令が出ていても自分の考えをあらためない。…

239頁

 アッッッッッッ!!!!!!これどこかで見たことある!!!!!!!!!入江意見や!!!!!!!!!!!!!!!

moominpapa.hateblo.jp

すみません、興奮してしまいました。

 

ああ 調和だけじゃ危険だ

ああ まさか自由はいけないことか

人はそれぞれバラバラだ

何か乱すことで気づく もっと新しい世界

 ここで述べられている「調和」「乱す」というのはそれぞれ、徒党の論理とそれに対抗する個人を指しています。これはもう間違いありません(大胆な攻め)。

人はそれぞれかけがえのない個人であり、我々はそれぞれ互いにかけがえのない関係にある。「もっと新しい世界」というのは、そのような”かけがえのなさ”に気付いた上での「孤立した個人の連帯」、そしてデモクラシーの存立を表わしていると読むのは完全に許されているといっていいでしょう(さらなる攻め)。秋元康先生は天才です。

 

 

さて、脈絡なく書きましたが、正直なところ中身にいちいち踏み込んでレビューをするのはそれこそ野暮であり、本書が伝える法の精神が単純化して受け取られるおそれもあります。なので、あえて踏み込みませんでした。

 

ただ、ワイのこの本をみなさんに読んでほしいという熱量はちょっとは伝わったでしょうか。本当にみんなに読んでほしいです。頼む。いらん本読んでる場合じゃないでホンマ。

 

~fin~

 

 

 

アンドゥムルメステール入門!まずはこれから!

え~~皆さんこんばんは。

今日は、「アンドゥムルメステール入門!まずはこれから!」と題しまして、安藤馨先生の論文や本を読みたい、でも難しそうだなあ、何から読めばいいのかなあというような全国8000万の悩める子羊たちに、不肖わたくしが男一匹立ち上がったというわけです。

 

それでは、さっそく始めましょう。

 

まず、安藤先生の文章にスムーズに入門するには、安藤先生の思想的立場をある程度踏まえておかなければいけないでしょう。たとえば、功利主義、物理主義、規範的排除的法実証主義、道徳実在論、外在主義、態度的快楽説、etc...

 

とりわけ、安藤先生よりバキバキな功利主義者は今日本ではいないと思うので、みなさんはこれから「功利主義者といえば?」という質問に対しては、ベンサム、ミルというありきたりな回答ではなく、「安藤馨先生!」と元気よく答えましょうね。

 

話がそれましたが、安藤先生のある種なじみのない立場を知るには、『法哲学法哲学の対話』に収録されている米村幸太郎先生の「少し離れたところからの眺め――≪異世界通信≫としての対話」から入るのがよいでしょう。

 

法哲学と法哲学の対話

法哲学と法哲学の対話

 

 

もっとも、これだけでは足りないので、RATIO(6)所収の安藤馨「あなたは『生の計算』ができるか?--市民的徳と統治」がわかりやすく、かつ明確に安藤先生の立場を表しているでしょう(もっとも、脚注になると本気モードになっているので、最初は脚注は読まない方がよいかもしれない)。 

ラチオ06号

ラチオ06号

 

 読みたくなると思うので、冒頭の文章を引用します。

「人の生命は地球よりも重い」とは巷間よく言われるところではあるが、耳にするたびに「でもひょっとすると木星よりは軽いのではないか」といった問いを思わず発しそうになる。或いは、「地球の全体には人が含まれるのだからもし人の生命が地球上の人体と同一の時空間に位置するのであれば『地球よりも重い』は意味をなさないのではあるまいか」とか「人の生命の重さというのは生きている時の人体の重さから死んだときの人体の重さを差し引けば宜しいのですか」といった、相手を怒らせそうな疑問がつい口をついて出そうになるし、実際出たことがある(そしてなるほど確かに相手は腹を立てるのだが)。しかし、これらの問いとそれに対する人々の反応は重要な意味を持っている。というのも、「重さ」が文字通り「質量」として受け取られた時にそれを不適切なものとみなすとはいえ、比喩的にないし類比的に用いられた際に「重さ」は明らかに比較可能でかつ集計可能な何事かを指し示すために用いられるからである。…

 どうだろう、読みたくなったんではないでしょうか。

あと比較的読みやすくかつ安藤先生の立場が分かりやすいのは、「幸福・福利・効用」や「功利主義からサンデルまでの長い話」、「アーキテクチュアと自由」、「功利主義と人権」、「統治と監視の幸福な関係」あたりでしょうか。これらのうち2つくらい適当に読むと良いでしょう(たぶん)。

 

自然主義入門やメタ倫理学入門、分析哲学入門などで入門しまくっておくのもいいですが、並行して、もしくはむしろ先に、論文を読み始めるほうが(研究者またはその卵のようなプロではない)我々にとっては楽しくなってくるのでよいと思います。

 

上のような(安藤先生の文章の中では)簡単な部類に入ると思われるものを読んだら次は、読みやすさ中レベル(わたし調べ)の論文に入っていきましょう。

わたしが独断と偏見で分類した読みやすさ中レベルの論文は以下の通りです。

「統治理論としての功利主義」/「応報主義と帰結主義の相剋」 

功利主義の逆襲

功利主義の逆襲

 

 「世代間正義における価値と当為」 

グローバル化のなかの政治 (岩波講座 現代 第4巻)

グローバル化のなかの政治 (岩波講座 現代 第4巻)

 

「租税と刑罰の境界史――法の諸モデルとその契機」 

現代租税法講座 第1巻 理論・歴史

現代租税法講座 第1巻 理論・歴史

 

 「功利主義者の立法理論」 

立法学のフロンティア〈1〉立法学の哲学的再編

立法学のフロンティア〈1〉立法学の哲学的再編

 

 「法と危険と責任と」/「団体が、そして団体のみが」/「最高ですか?」

正直今書いていて「急にレベルあがっちゃったな」と思いました。でも大丈夫、大丈夫です。なぜならおもしろいので。

このなかでわたしが好きなのは、「そぜけい」、「ととと」とかですかね。

 

これらを読み、いよいよアンドゥムルメステールの一員となった君たちは、ついに読みやすさ上級レベル(わたし調べ)へと突入していくのがよいでしょう。

「制度とその規範的正当化」

「現代法概念論の諸相」

「規範的談話の意味論」

「メタ倫理学と法概念論」

帰結主義と『もしみんながそれをしたらどうなるか』」

「現代自由意志論の諸相」

「集団的行為主体と集団的利益」

「『規範と法命題』-行方を訊ねて」

「道徳的特殊主義についての短い覚書」

等々です。「いや、タイトル急にかっこよくなり杉内…」と思いましたか?わたしは思いました。

このなかでわたしの好きなのは、「せいきは」「だんいみ」とかですかね。

 

 

まあ、ここまで滔々と適当に書いてきましたが、ぶっちゃけ結局のところアンドゥムルメステールの聖書こと『統治と功利』を最初から読み始めてもいいと思います。 

統治と功利

統治と功利

 

 

さあ、これを読んだあなたも、今日から安藤馨先生ライフをレッツエンジョイ!!!!!最大多数の最大幸福を目指そう!!!

 

~FIN~