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ワイワイブログ

畢竟独自の見解

メタ倫③

「認知主義・内在主義・動機づけのヒューム主義」を同時に採用した場合に生じるトリレンマを回避するためにこれらを少なくとも一つは棄却しなければならない。そこで、最初に認知主義を棄却し非認知主義を採用する立場を紹介しよう。

 

復習:非認知主義→道徳判断は欲求(Desire)という態度である

認知主義を棄却するというのは、直観的に一番最初に思いつく選択肢ではないだろうか(少なくともワイはそうだった)。

なぜなら、道徳判断について認知主義を保持するということは、「~が悪い」というような判断について、それが世界の事態によって真になったり偽になったりするということであるから、その判断を真とするような世界の事態、つまり「~の悪さ」というような道徳的事実の存在を世界の事態として認めることになるからである。(「~すべき」という判断については対応する「なされるべき性」というような事実が世界に存在しうることを認めるということ)(なお、認知主義を採りつつそのような道徳的事実の存在を認めない立場も存在する。錯誤説error theory))

この点において、非認知主義を採るということは結構直観適合的ではないだろうか(少なくともワイの直観には適合している)。

 

非認知主義陣営は、内在主義・動機づけのヒューム主義を保持しつつ、認知主義を棄却している。従って、ここで非認知主義が認知主義側の弱点として問題にしている「道徳的事実」とは、、、

道徳的事実→それを認識しただけで我々が何かに動機づけられるような事実(=指図的)

ということになり、認知主義陣営はこれを世界の事態として存在しうることを認めることになる(錯誤説を除く)。非認知主義は、世界を見渡した時にそのような事実なんぞ存在しないじゃないか!ええかげんにせえ!として認知主義を拒否したいわけである(簡略化してます)。

しかし、このような非認知主義陣営にも弱点が存在する。絞って言えば、①我々のしている道徳判断が真理値志向的ではないことになってしまう②道徳的不同意の事態をうまく説明できない、というものである。

①我々のしている道徳判断が真理値志向的ではないことになってしまう

我々は、普段「Aは悪いやつだ!」という道徳判断を為す際、自らのその判断は真である、と思っているのではないだろうか(=真理値志向的)?これに対し、その判断を非認知主義的に分析すると、もはやその道徳判断について真理値を持たないことを我々は受け入れていることになるのであった。しかしこれは我々の普段なしている道徳判断と果たして整合的だろうか?

 

②道徳的不同意の事態をうまく説明できない

我々は普段の生活の中である対象Xを見たとき(「AがBを蹴り飛ばしている様」とか何でもよい)、「Aは悪いやつだ!やめるべきだ!」「いや、Aには許されるところがある、やめる必要はない」というような衝突する道徳的談話をごく当たり前に行っている。しかし、非認知主義を採用した場合、上記の例は其々「Desire(Aは悪い⋏蹴るのをやめる)」「Desire(Aは悪くない⋏蹴るのをやめない)」といった両者の非認知的態度、つまり情動を相手方に表出しているだけであると分析される。このように分析された両者の談話はもはや衝突していないことになる(互いのDesireの表出にすぎず、相手方の情動に対しては「お前はこう言う、でも俺はこう言う、俺はそういう人間だ」と言うことができ、容易に両立する)。しかしこのような分析は妥当だろうか?

 

このような批判に対しては、非認知主義陣営からの反論がある。以下にみてみよう。

①道徳判断が真理値志向的ではないことになってしまう

この批判に対しては、真理のデフレ主義と呼ばれる立場からの反論がある。デフレ主義は一般に、truthmaker principle(ある命題についてそれを真か偽かにならしめるtruthmakerが存在するという原理)を拒否し、disquotational principle(ある命題pについて「"p"is true.」と言う場合、それは単に「p.」と言っていることに等しいという原理)を受け入れる。

このような見解からすれば、

「「Aは蹴るのを止めるべき」は真である」ということはつまり「Aは蹴るのを止めるべき」ということと何ら変わりない。そして「Aは蹴るのを止めるべき」というのは非認知的態度の表出と分析することになるので、結局我々の分析によっても、-単に引用符が解除されているだけでー道徳判断の真理値志向性を棄却することにはなっていないのだ、と反論することになる。(認知主義陣営からの再反論は省略)

 

②道徳的不同意の事態をうまく説明できない

これについては、命令説という立場から反論がなされる。通常非認知主義陣営は「Aはφすべきだ!」という判断を「Aはφしてほしい」という情動であるとして分析する。命令説は、これに付け加えて、「Aはφしてほしいと私は思う、あなたも賛成しなさい」という相手に対する命令も同時に表出されている、と分析するのである。このように理解された我々の道徳的談話を見ると、「Aはφしてほしい、あなたも賛成しなさい」「いやです」という衝突が説明可能なように思われる。従って、道徳的不同意の事態は説明可能なのであるエッヘン、と反論するのである(認知主義陣営からの再反論は省略)。

 

長くなってきたので次回に続く

 

 

メタ倫②

前回道徳判断についての認知主義・非認知主義の対立を見ました。

次に、判断に伴う動機づけの内在主義という立場を紹介することにします。

 

例えば、あなたが「AがBに殴りかかっている」状況を見て「私はAを止めるべきだ!」という「べき」判断をしたとしよう。その「べき」判断をした際、同時に「Aを止めよう」という動機づけがなされていないとすると、あなたは真摯に「私はAを止めるべきだ!」と判断したといえるのだろうか?つまり、「私はAを止めるべきだ!まあ止める気全くないけどな!」という時あなたは真摯に「べき」判断をしているだろうか?

このように、真摯な道徳判断には通常それに対応した動機付けが伴うと考えられる。このことを動機づけの判断内在主義という。(逆に、対応する動機づけが必ずしも伴わないとする見解を外在主義という)

 

 

認知主義/非認知主義、内在主義/外在主義を見たうえで、最後に動機づけのヒューム主義を見てみよう。

動機づけのヒューム主義は、動機づけには欲求(Desire)が必要とする立場である。これは結構説得的な立場ではないだろうか。先の例によれば、「Aを止めよう」という動機はまさにDesire(Aを止める)という態度そのものであって、Believe(Aを止める)という態度ではないだろう(Aを止めよう!という態度が、その後Aを実際に止めたか否かによって真だった!偽だった!ということがいえるようになるというのは馬鹿げているように思える)

 

さて、ここまで紹介した道徳判断についての立場のうち、認知主義・内在主義・動機づけのヒューム主義を同時に採用すると、矛盾が生じることが知られている(ワイは知りませんでした)(当然)

つまり…

1.道徳判断は信念(Believe)である(∵認知主義)

2.道徳判断には動機づけが伴う(∵内在主義)

3.信念だけでは動機づけは伴わない(∵動機づけのヒューム主義)

4.道徳判断には動機づけは伴わない(∵1&3)

5.矛盾(∵2&4)

 

従ってこのトリレンマを回避するため、少なくとも一つは「認知主義・内在主義・動機づけのヒューム主義」を棄却しなければいけないことに…。(それぞれの考え方をもう一度見てください、どの立場も説得的で棄却しづらいなあと思いませんか?)

つまり、内在主義・動機づけのヒューム主義が説得的だなあと思う場合、認知主義を棄却し非認知主義陣営に与しなければならなくなって、認知主義・動機づけのヒューム主義を説得的だと思ったら、内在主義を棄却し外在主義を擁護する必要がある、ということです。

 

ここまで書いてきてあれですけど、メタ倫理、激アツじゃないですか?だって、「認知主義陣営v.s.非認知主義陣営」とか「内在主義陣営v.s.外在主義陣営」とかやってるんですよ?最高…(遠くを見ながら)

 

次回に続く

 

 

メタ倫①

※ワイの備忘録及び復習を兼ねて、某講義で取ったノートを片手にメタ倫理について書きつけていきます。(正確性は一切保証しないし用語法もある程度テキトーです)

 

メタ倫理学は「べき」についての学問。難しく言うと当為言明の解明。

こう言うとメタ倫は法哲学に興味ある勢としては大事だなあと思う(小並)。法律って大概「~べき」って規定されてるし。ほんで、メタ倫理学の理論動機に引き付けて言えば、法は「…は~すべき」っていう当為命題の形だけど、この命題が真理値を持つ(真であったり偽であったりすることができる)といえるのかというのは法律学にとってクリティカルな疑問。仮にそういう法命題が真理値を持たないとすると、法律学が無意味なものになってしまうような気がする。こわ。

そこで、メタ倫理学を勉強する動機付けがある。(何様)

 

まず、最初におさえておくべきなのが二つの命題態度(ある命題を対象とする態度)の違いについて。

信念(believe)⇔欲求(desire)

信念は、世界の事態によって真偽が決まってしまう態度のこと。たとえば、「ワイは民法の単位をとれている(=Believe(ワイは会社法の単位をとれている))」というワイの信念は、実際に民法の単位が来たかどうかによって真偽が決まることになる。実際に単位があれば「ワイは民法の単位をとれている」という信念は真だったことになるし、なければその信念は間違っていたことになる。

世界の事態に対して自分を適合させようとするので、世界の事態について「認知的」な態度。

 

逆に欲求は、世界の事態によっては真偽が決まらない態度のこと。たとえば、「あ~明日会社法休講になってくれ~(=Desire(明日会社法が休講になる))」という欲求は、明日実際に会社法が休講になったかどうかで真であったり偽であったりしない。まあ当たり前だよね。会社法が休講にならなかったからと言って、「お前昨日あ~会社法休講になってくれ~って言ってたけどあれ間違いだったな」ってならないでしょ。そういうやつがいたらそいつは日本語の分からないバカ

世界の事態に自分を合わせようとしない態度なので、「非認知的」な態度。

 

この二つの命題態度の違いを踏まえたうえで、道徳的な判断についてこの二パターンを考えてみると、、、

「あるロー生が勉強もせずに法哲学の本ばっかり読んている」という状況を見たとき、たいていの人は「あっ、あいつ悪いやつやな」という道徳判断をするだろう(ワイはここで絶命)。この道徳判断をしたときにあなたはどういう命題態度を採っているのかを分析する際、「認知主義」と「非認知主義」という二つの陣営のどちらに与するかを考える。

認知主義陣営に与する場合、このときの命題態度はBelieve(あいつは悪いやつ)だと分析されることになる。こう考えた場合、世界に「あいつは悪いやつ」か否かという事態がありえて、それによって自分の「あっ、あいつ悪いやつやな」という判断の真偽が左右されることを認めることになる。

非認知主義陣営に与する場合、このときの命題態度はDesire(あいつは悪いやつ)だと分析される。こう考えた場合、本当にあいつが悪いやつかはどうでもよく、仮に「あっ、あいつ悪いやつやな」と言った際に誰かが「いや、あいつは悪くない、最高」と言ったとしても「お前がそういうならそうなんだろう、お前の中ではな」と言える。

 

さらにこれを道徳的な「べき」判断としてみると、、、

認知主義陣営に与すると、「あいつは法哲学本ばっか読んでないで勉強すべきだ!」という「べき」判断はBelieve(あいつは勉強すべき)であるといえ、この場合「あいつは勉強すべき」という当為命題が存在し、真理値を持ちうるということを受け入れることになる。

他方、非認知主義陣営からすると、この「べき」判断はDesire(あいつが勉強する)であると分析できるだろう。この場合、われわれがしている「べき」判断は「あいつが勉強する」というような事実命題を対象とする態度に過ぎないのであって、ここに当為命題は現れないし、「べき」判断が真理値を持つことはないと考えることになる。

さて、このように見た場合、我々の「べき」判断はどちらの陣営の分析のほうがイイカンジだろうか。認知主義陣営に与すると、当為命題の存在を認めることになるので、この「べき」という我々の判断が世界の何らかの事態によって真だとか偽だとかになるということを受け入れる必要がある。だがそんなことは可能だろうか?

非認知主義陣営に与すると、当為命題の存在は認めなくてよくなるが、我々が普段なしている「…は~すべきだ!」という「べき」判断は全部desireに過ぎず、そういう我々の判断は真偽を問うことが無意味ということになる。しかし「…は~すべきである」という当為命題の存在について我々は普通に受け入れて生活しているように思えるし、我々は自分が「あっ、あいつ~すべきだ」というときにはこの判断は正しいと思っているのではないだろうか。

さあ!君はどちらの陣営につくか!!!!???!??!?

 

長くなってきたので次回に続く

「任意処分」と「附随措置」

「停止させる手段の限界について、具体的な基準を示した判例はない。しかし、職務質問に伴う所持品検査の許否につき説示した判例は、その論理に拠れば「任意手段である職務質問の附随行為である所持品検査について、原則対象者の承諾、承諾なき場合、すなわち対象者の意思に反しその法益を侵害する場合については、「限定的な場合において…[そ]の必要性、緊急性、これによって害される個人の法益と保護されるべき公共の利益との権衡などを考慮し、具体的状況の下で相当と認められる限度においてのみ、許容されるものと解すべきである」と説示しているので、「質問」実施の前提して不可欠な「停止」手段についても、この説示と同様の「比例原則(権衡原則)」が適用されることを前提にしているはずである。なお、この基準は、任意捜査における有形力行使の適否判断基準と実質的に同じものとみることができる。有形力を伴う「任意手段」という点で共通する警察活動について、大枠として別異の法的基準を立てる積極的理由は見出し難い。」(酒巻匡『刑事訴訟法』42頁)

 

刑事訴訟法

「A君:警察官職務執行法2条1項は、警察官に職務質問とそのための停止措置の権限を付与していますが、2条3項において、職務質問の相手方は、刑事訴訟に関する法律の規定によらない限り、身柄拘束、意に反する連行、答弁の強要をされないと規定していますので、質問も停止措置も任意処分であり、有形力の行使は絶対に許されません。従って、Kの措置は違法です。

教員:これらが「任意処分」と理解されていることは、A君の言うとおりだけど、…」(古江賴隆『事例演習刑事訴訟法(第2版)31頁)

 

事例演習刑事訴訟法 第2版 (法学教室ライブラリィ)

ここでは、刑訴法197条1項を根拠とする任意処分と、警職法2条1項を根拠とする「職務質問に伴う附随措置」の同質性が強調され、両者をパラレルに考えてよいことが許容されているように読める。

だが、本当にそうだろうか。私は、これら二つをはっきりと区別して整理しておく方が有益だと考える(司法試験的に有益という意味ではない)。以下、そのように考えた道筋をメモしておく。(以下多分に予測予想を含むものであって正確性は保証しない)

 

両者をパラレルに考えるとした場合、刑訴法197条1項による任意の手段と警職法2条1項の附随措置はいずれも「強制手段にあたらない有形力の行使であっても、何らかの法益を侵害し又は侵害するおそれがあるのであるから、状況のいかんを問わず常に許容されるものと解するのは相当でなく、必要性、緊急性なども考慮したうえ、具体的状況のもとで相当と認められる限度において許容されるものと解すべき」という昭和51年決定によりその限界が画されることとなろう。

すなわち、「法益侵害の内容・程度と「必要性、緊急性など」とを「考慮した」結果、合理的権衡が認められるという結論を「相当」」(酒巻前掲書35頁)とするのであるから、この限界の画し方は端的なad hoc balancingによるものだろう。

 

しかし、昭和51年決定はあくまで「捜査」における強制手段・任意手段について判示したものであるから、その射程は通常刑訴法197条1項の解釈にのみ及ぶのであり、当該基準を「警職法2条1項」の基準として当然に並列化できるわけではない。

そこで、警職法2条1項による「附随措置」の限界を画す基準として第一に参照されるべきは同法1条2項であると考える。

警職法1条2項「この法律に規定する手段は、前項の目的のため必要な最小の限度において用いるべきものであって、いやしくもその濫用にわたるようなことがあってはならない。」

この条文に関して警職法1条が厳格な比例原則を求めていることに鑑み、身体・行動の自由に加えられた侵害・制約の程度と手段の「必要最小」との権衡の判定に際しては、特に他のより侵害的でない手段が容易に可能であったかどうかに留意すべきであろう。」(酒巻前掲書35頁)と指摘されている。

このことからすれば、刑訴法197条1項を概括的根拠規範とする「捜査における」任意手段はad hoc balancing、警職法2条1項を根拠規範とする「行政警察活動における」質問に伴う附随措置は、LRA基準により画されると読むのが自然ではないか

とはいえ、これではまだ「そうと読める」という許容性を示したに過ぎない。次に、「そう読むべきである」という必要性を示す。

 

警察活動には「捜査」と言われる「司法警察活動」(=司法警察目的による活動)と、捜査に至らない「行政警察活動」(=行政警察目的による活動)があるとされ、刑訴法は司法警察活動を、警職法行政警察活動について規定するとされる。この区別は流動的なものではあるが、その区別の梃子となっているのは「犯罪の嫌疑の濃度」であるといえる。なぜなら、行政法2条1項は職務質問の端緒として何者かが「何らかの犯罪」を犯そうとしていると思料される場合を予定し、他方刑訴法189条2項は「犯罪」があると思料されるときを捜査の端緒としていることから、行政警察活動においては未だ漠然とした犯罪の嫌疑の存在が予定され、それが特定犯罪の嫌疑として濃厚になってきた場合に、司法警察活動としての捜査へと移行していくことが予定されているといえるからである。

純粋に相手方の任意に基づく警察活動には根拠規範は不要である以上、ここで問題としている任意処分、附随措置というのは相手方の同意を必ずしも得ない場合における有形力の行使等を予定しているものである。

そうするとこのような一方的な有形力の行使が法により許される程度というのはおのずと相手方の犯罪の嫌疑の濃さによって変動すると考えるのが自然である。相手方の犯罪の嫌疑が濃厚であればその分有形力の行使の程度が大きくなることも故なきことではないし、他方嫌疑が未だ漠然としたものであればそのような嫌疑しかない相手方に行使しうる有形力の程度は非常に減縮されたものと考えるのが合理的である。

そして、このように考えるのは、被疑者の長時間の留置きの適法性を判断する枠組みとして、留置きの「目的」により区分けされた「純粋任意段階」と「強制移行段階」という区別を導入し、各々の段階では任意捜査として(=刑訴法197条1項における任意の手段として)許容される程度が異なる、とした東京高判平成21年7月1日、平成22年11月8日とも平仄があう。(同裁判例では、覚せい剤使用が疑われる被疑者を留め置く際に被疑者に対し行った有形力の行使が許されるか、という問題に際して、自発的な尿の提出を説得するという「説得目的」の留置き(=純粋任意段階)と、らちが明かないとして強制採尿令状発布を待つ間の迅速円滑な令状執行のための「対象者の所在確保目的」の留置き(強制移行段階)では許容される有形力の行使の程度が変わるとした∵純粋任意段階に比して強制移行段階においては、令状発布を決断する程度に犯罪の嫌疑が濃厚となったとみることが可能である)

 

以上の理由により、刑訴法197条1項を概括的根拠規範とする司法警察活動(司法警察目的でなされる活動)としての任意処分と警職法2条1項を根拠規範とする行政警察活動(行政警察目的でなされる活動)としての附随措置は其々ad hoc balancing,LRAにより限界が画されるべきものである以上、両者を「実質的に同じものとみ」たり「これらが「任意処分」と理解されている」としてパラレルに整理することはできず、区別し整理しておく必要があると考える。

メモ

「ある行為に内在する危険性が、結果として現実化した」

というのは一部の人間にとってはよく聞くフレーズである。これは刑法上において、ある行為とある結果を繋げる因果関係がどのような場合に存在したといえるかを認定する際の「危険の現実化」フレーズである。このフレーズから直ちに以下のテーゼが導かれる。

①ある行為トークンにはそれに対応した危険性が内在している

 

「自由意思に基づいた行為に対して、刑を科する」

これは旧派刑法学の採用する行為主義のテーゼである。この行為主義テーゼを採用するということは、以下が前提されている。

②自由意思と決定論は両立する。

これに対してロンブローゾが有名な新派刑法学は以下を前提する。

②’自由意思と決定論は両立しない。

そしてこの固い決定論テーゼを前提として、新派刑法学は以下のテーゼを採用する。

③行為者の有する危険性に対して、刑を科する。

 

すぐ気づくように、①と③のテーゼはよく似ている。

①においては「行為」に内在する危険性を、③においては「行為者」に内在する危険性を問題としている。しかしながら、周知のとおり現行刑法学は新派刑法学を拒否し、③のテーゼを退ける。③のテーゼの退け方にも大きく二種類あるように思える。

③’行為者は危険性を内在するが、刑は科さない。

③”行為者に危険性は内在しない。

当然、現状行為者に刑が科されていることから、現行刑法学は③’を採らずに③”を採って③テーゼを退けているという推論が働く。

そこで、現行刑法学の採る①テーゼと③’テーゼを組み合わせると以下のテーゼが導かれる。

④行為者に危険性は内在しないが、なした行為には危険性が内在する。

 

この現行刑法学がとっていると思われる④テーゼをひとまず置いておいて、「危険性」とは何か見ておく。端的に言うとここでの「危険性」とは「法益侵害のしやすさ」という傾向性のことを指しているといえる(紙の「燃えやすさ」、ガラスの「割れやすさ」と同様)。

すなわち、④テーゼとは、ある行為者Xについて、Xは「法益侵害しやすくない」が、Xのなしたある行為φは「法益侵害しやすい」ということを指している。

 

奇妙である。

「~しやすい」という傾向性が帰属するのは現実の世界内に一定の物理的範囲を占める物質のはずである(この世に存在する物質を指示さない純粋な概念νについて「~しやすい」ということは甚だ無意味であるばかりか意味不明である)。そして、ある行為φは物質であるところの行為者Xによってなされる(とされている)のであるから、その行為者Xに対応して世界内に一定の物理的範囲を占めるはずである。

端的に疑問を言えば純粋な、一般名詞的な「行為」はこの場面において問題になり得ず、問題となるのは常に「(特定人)の行為」なのであるから、

ある行為者Xは世界内に一定の物理的範囲を占める⇒ある行為者Xのなしたある行為φは世界内に一定の物理的範囲を占める

が常に成り立つはずであり(これは作為的・不作為的でも一緒)、このことからすれば、ある行為φがある時点において世界内に一定の物理的範囲を占めている場合、その物質は「行為者X」に帰属可能である。

とすれば、なぜ④テーゼは「法益侵害しやすさ」という傾向性を、行為者Xとその行為者がなした行為φに同一に帰属させず、さも別の物質であるかのようにふるまっているのだろうか。

雑記:投票推進言説について

衆議院が先月21日に解散、今月14日が投票期日となった。これを受けて(いや最近は常に、かもしれない)、至る所から「選挙に行こう!」「若者の声を政治の場へ!」というような言説が、純粋無垢な使命感を帯びて聞かれるようになってきた。彼らの其のような実直さあふれる呼びかけには、直観的に、多くの人が賛同しているように感じる。このような、「投票推進言説」をカマす人に、「どうして選挙に行かないといけないの?」「選挙にいくメリットは?」と尋ねると大抵このような返事が返ってくる。

① 「塵も積もれば山となる」ように、一人の投票で結果が変わる!
② 最善の候補者がいなくても、次善の候補者に投票することで、現状の勢力を相対的に削ぐことができる
③ 投票を棄権すること・白票を投じることは現状肯定であり、そうすると政治を批判する資格がなくなる


 こういう返事を聞いてどう感じるだろうか?結構多くの人がなんだか説得された気になって、うーん言われてみればそうだなぁ、いい候補者がいないけどなんとかマシなやつを見つけて投票するかあ、と思っちゃいがちではないだろうか。
 僕がこの投稿で言いたい結論を先に述べると、「こんな投票推進なんてクソくらえ、投票したくないならしないでよい」ということである。個人的にこの手の投票推進言説に対してイライラしているので、大勢を占める投票推進言説へのカウンターアタックとして、上記投票推進言説への反論を行う。

 まず、上記①の、「塵も積もれば山となる」論についてどう思っただろうか。なんとも美徳を感じる素晴らしい主張のように思えるが、僕に言わせると偽善的であり得ない。こんなことを言うと多方面から怒られそうだが、「自分の一票ごときでは何も変わらない」。現状、与党と野党との得票率・支持率には大きな開きがあり、このような状況で投じられる自らの一票に、投票結果を変えるような影響力は何もない(当たり前といえば当たり前だが)。自らの一票が投票結果に影響力を持つのは、対立する候補者の得票数が並んでいる場合か、一票差がついている場合“のみ”である。
このようなことを言うと、「投票推進言説」論者から、「そんなことを皆が考え、投票に行かなくなったらたいへんだろ!」という再反論があるかもしれない。しかし、残念ながらこのような再反論は成功しているとは言えないだろう。なぜなら、みんながそんなことを考え始め、投票率が下がり始め、上記のような、現実に自らの投票行動が選挙結果に影響力を持つ可能性が高まってくると、その時は投票に向かうようになるだろうからである。「政党の得票差に大きな開きがある時の投票行動」と「得票差が殆どない時の投票行動」は功利的にRelevantな違いを持つことを見逃してはいけない。「得票差が殆どない時の投票行動」には、皆が「先だって投票行為をやめた」という通時的な累積効果を読み込む必要がある。
 
 次に、上記②の「最善の候補者がいなくても、次善の候補者に投票することで、現状の勢力を相対的に削ぐことができる」という理由はどうだろうか。この理由は換言すると、「自らの投票行為で得票率を上げ、現在の(組織票を有するような)与党ないし既得権益の位置を相対的に低下させる」ことを意味するのだろう。
しかし、前述したように、現状の政党勢力図を鑑みると、たとえ自らの投票行動で得票率が0.0000000001%上がったとしても、それには何の意味もない。たとえば政治家が、「若年層の得票率がかなり高いな、なら若者への政策を打ち出していく必要があるな」というように考えるのは、あくまで若年層とそれ以外の年齢層の得票率が拮抗しているような時“のみ”だろう。そして、その時の投票行動は、現状での投票行動とRelevantな違いがある。
 もしかしたら現状の政党が持つ「組織票」なんてのは気に食わん!と思っている人がいるかもしれないので付言すると、世の中の投票は全てある種の組織票である、と述べておく。そのような人が想定する「組織票」とはおそらく「ある会社が合議のうえ社員一体となって行う投票」のようなものだろう。しかし、僕のようないわゆる「若年層」の意見を政策に取り入れてもらうには「若年層の組織票」が必要だし、子育て推進政策を政策に取り入れてもらうには「子持ちのパパママの組織票」が必要だろう。つまり、「組織票」はその「組織」の抽象度の違いで何とでも言えるのであり、したがって全ての投票行為は「ある組織の利益」を達成するために行われる。

最後に、上記③「投票を棄権すること・白票を投じることは現状肯定であり、そうすると政治を批判する資格がなくなる」というような言説はどう考えられるだろうか。
我々には言論の自由憲法21条1項)が保障されている(今後どうなるかはわからないが)。政治について批判・議論を行うことができるのはこのような自由が個人に保障されているからだが、投票を棄権・白票を投じることでこの自由が奪われるのか?投票の棄権・白票投票と言論の自由に基づく政治的言論への参加には関連性は無い。こういった類の言説の背後には、「批判する権利があるなら、それの前提となる義務がある」という化石的思想があるように思えるが、そういった「権利には義務が伴う」命題は論理必然ではないし、そもそも選挙権と言論の自由は根拠条文を異にする。
また、「投票を棄権・白票投票することと現状肯定」との間にも因果性は無い。A,B,Cという候補者がいて、「全員嫌だ!」と思って投票をしなかったことは、結果当選したAを信任したことには絶対にならない。例えば、自分の父親と母親が人質に取られ「どちらかを殺す。しかしお前たちが選んだほうは殺さないから選べ」と言われ、自分はどちらも嫌なので選ばなかったが、他の数名が父親を選び、結果母親が殺された。このような時に「お前はどちらも選ばなかった。つまり母親を殺すことを黙認したのだ」と言えるだろうか?

このように、投票しなければ黙認だといわれ、逆にしぶしぶ「次善の候補者に投票」し得票率を上げると、高い得票率の下当選した候補者であり正当に国民の支持を得ている、とされる。いずれにしても当選者の正当性を論ずることに利用するだけであり、欺瞞である。
また、得票率が高いことで生じている問題もあるように思える。「一票の格差」という問題を聞いたことがあるかもしれない。地域によって一人が有する一票の価値が異なり、正確に国民の実態に合った議員数が選出されていない、という問題である。これは投票価値の平等に反するとして幾度となく訴訟が提起されたが、最高裁はこれを違憲無効とせず、「違憲状態」とするにとどめている(違憲無効とすると選挙活動が全て無駄となるし、定数変更の猶予を与える側面がある)。この違憲状態は国会に猶予を与える意味もあるが、加えて「間接民主的正統性を有する国会議員」を裁判所が尊重する、という側面があるように思う。(違憲状態だが)投票率の高い選挙で選ばれた議員は高い正統性を有するので、民主的正統性を有さない裁判所はこれを尊重する(日本で違憲判決が非常に少ないこととも関連する)。とすれば、投票率が非常に低い選挙であれば、最高裁はそのような立法府を過度に尊重するインセンティブは薄まる。したがって、「あえて投票をせず、投票率を下げることで最高裁違憲無効判決を出させる環境を整え、以て一票の格差を改善する」という路は考えられないだろうか?

最後に、冒頭に述べたことを繰り返すと、投票推進なんてクソくらえ、投票したくないならしないでよい。選挙に行くことは義務ではない。個々人の有する権利の行使である。したがって権利を行使するかしないかは個々人の自由である。行きたければ行けばよいし、行きたくなければ行かないでもよい。投票したい候補者がいなければ無理に投票する必要はない。


ー「自由主義とはこの上ない寛容さなのである。それは多数者が少数者に与える権利であり、したがってかつて地球上で聞かれた最も気高い叫びである。自由主義は敵と共存する決意を、しかも弱い敵とさえ共存する決意を表明しているのだ」ー『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット "La Rebelión de las Masas" Ortega y Gasset

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

ー「今度、あなたがこのような「公共の魂を持った」夢見る人々の一人に遭遇したら、その人物が「非常に望ましい目標は、誰もが参加しないと達成されない」と恨みがましくあなたに告げるときには、こう言っておやりなさい。もし、あなたが誰からも自主的な参加を得られないとしたら、あなたの目標は実現されないままのほうが喜ばしいし、他人の生活は、あなたの好きなようにしていいものではないと。」ー
『利己主義という気概』アイン・ランド “The Virtue of Selfishness: A New Concept of Egoism” Ayn Rand

利己主義という気概ーエゴイズムを積極的に肯定するー