ワイワイブログ

畢竟独自の見解

写真撮影は「検証」か?

刑訴の話です。興味ない方はお帰りください。

 

また、書く前にすでにめんどくさくなってきたので、下調べや教科書等のリファー、条文摘示は極力なしでいこうかと思います。

また、当然ですが、強制処分たる性質を有さない写真撮影も事案との関係ではあるかと思いますが、以下で想定しているのは強制処分たる性質を有する写真撮影のみですのであしからず。(なお、以下での論述に関わりますが、細かいが本当は「強制処分たる性質を有する写真撮影」ではなく「強制処分性が問題となるような態様で行われる写真撮影」と書きたい)

 

 

写真撮影は「検証」か?という質問に対し、(「押収」の場合や「捜索」の場合もある、という返答をするちょっとめんどくさい人を除けば)YESと答える方はそれなりに多いのではないかと思います(わたくし調べ)。

 

しかし、これはワイの持論なのですが(それゆえ畢竟独自の見解なのですが)、写真撮影は「検証」ではない、と言いたい(かってにしろ)。

 

 

司法試験との関係で有名なのは、捜索差押に伴う写真撮影の可否でしょうか。

まず、その論点では強制処分法定主義が問題となっているのか、それとも令状主義が問題となっているのか、どっちなんでしょうか。(司法試験受験後と思えない問い)

 

令状主義の問題であると答える場合、論理的にいって強制処分法定主義は問題にならない、それはクリアしていると答えることになるのかと思います。

そして、少なくない方々は、これは令状主義の問題である、と答えるのではないかと思います(ワイ調べ)

判例は、捜索差押に伴う写真撮影を、事案との関係によりますが、捜索差押令状に付随する効力により説明していたかと思います。それゆえ、令状主義の問題であると答えるのかもしれません。

 

 

では、強制処分法定主義はクリアしているのであれば、その「特別の定」はどこに求めればよいのでしょうか。ここで、表題の問いにつながります。

写真撮影が「検証」であれば、当然「検証」の根拠規定が「特別の定」になろうかと思います。しかし、そうであれば、捜索差押に伴う写真撮影は検証令状が必要になるのではないでしょうか。

この点、捜索差押がなされるのであれば、検証による法益侵害が既に包含されているとして、別途検証令状は不要なのだ、というような反論があるのかもしれません。

なるほどそうなのかもと思う反面、冒頭で若干述べた、写真撮影には「検証たる性質」がある場合や、「捜索たる性質」「押収たる性質」の場合がある、というような話が無意味になるのではないでしょうか。また、法が類型的に捜索差押と検証を別途規定したことと正面から抵触することになる解釈論にはならないでしょうか。

 

ここでワイが言いたいのは、受験生おなじみの「写真撮影は検証たる性質を有する」ということと、「写真撮影は検証である」ということはイコールではないのではないかということです。

つまり、事案との関係で留保が必要な場合もありますが、「写真撮影は検証それ自体でなく、検証に「必要な処分」である」と理解しておきたいのです。

 

 

強制処分は、強制処分法定主義の要請ゆえ「特別の定」が刑訴法規内に必要な一方、任意処分であっても法律の留保原理から法律の根拠は必要であり、その根拠規定は197条1項になるかと思います。

そうすると、「必要な処分」として111条1項が規定されているのは、197条1項の任意処分として説明ができないような場合、つまり強制処分の場面が包含されていると思われます(鍵を壊すなどは強制処分性があるのではないでしょうか)。したがって、「必要な処分」を定めた111条1項などは、197条1項但書をうけた「特別の定」としての役割を有しうることになります。

(上記アイデア判例と抵触するかもしれませんが、判例の結論を捜索差押に伴う写真撮影を「必要な処分」として説明を組み替えることは可能かと思いますし、そうでなければ、強制処分性をどう考えているか定かでない判例の方がおかしくね、というのが私見となろうかとおもいます)

 

正直どうでもええやん、って言われるとまあそうなんですが、試験との関係では、もしかしたらそういう細かい部分は書かなくても良いとも思いますが、仮に書くのであれば、強制処分法定主義をクリアする際の条文摘示が「検証」それ自体の規定をあげるのかそれとも「必要な処分」を規定した111条1項をあげるのかが変わろうかと思います。

 

令状裁判官が審査し許可した侵害法益とことなるヤツを撮影するのはダメやで、って部分はそれこそ強制処分法定主義をクリアした後の、令状主義プロパーの問題として説明ができます。

また、「押収たる性質」や「捜索たる性質」を有する写真撮影も、押収それ自体や捜索それ自体ではなく、あくまでそれらに「必要な処分」として説明ができるかと思います(準抗告の可否についても然り)。

上記は捜索差押に伴う写真撮影を念頭に置きましたが、それ以外の、捜索差押を伴わない、しかし強制処分性が問題となるような態様で行われる写真撮影の場合も同様です。写真を撮る捜査官が、カメラを通さず、五感の作用を用いて行う対象の把握こそが検証であり、撮影それ自体は、その把握結果を保全するための「必要な処分」ということになります。

 

 

以上です。

 

 

 

 

 

 

「「結論の妥当性」についてのメモ」についてのメモ

moominpapa.hateblo.jp

 

これに関してツイッターで面白いやり取りがあったので、載せておきます。

言わずもがなではありますが、ワイの発言は畢竟独自の見解ですのでそのように。

 

【やり取り①】

ワイ:法の認識の順序として、細かな部分ではなくフラーの挙げる徳性のようなものがまず先に認識されるあるいはされないということになるのかな

 

?:ある法が明晰性等を判断するためには、その法の個別の条文や語句を材料にして、まずはその部分の明晰性等を判断することになるけど、しかし、ある部分が明晰でないとしても、他の部分を読みあわせれば、全体としては明晰だということもありえ、しかしその他の部分が明晰かはさらに他の部分も参照しなけ(…以下循環)(カッコ内はワイ)

 

ワイ:法の明晰性は法的価値ですが、その有無の判断において法以外から判断材料を供給してくることは排除されないのでは?何らかのインクの染みについてこれこれこういう風に解釈する(そしてそれは「明晰」であると考える)という我々の信念(そしてそれは世界の事態の一部)を参照しつつの判断をするような

 

?:当初のリプライの趣旨から変わるけど、その明晰性に関する信念って、法文に限らず、様々な文章に共通するか、あるいは、そういう信念がジャンルごとにあるとしても、ジャンル間で相互に影響を与え合うものだろうから、法に閉じたものではいられなくない?

 

ワイ:例えば刑法における責任能力の有無の判断は生物学的・心理学的要素を考慮する必要があり十分専門家の判断を尊重する必要があるものの究極的には裁判所の評価に委ねられているように、法の明晰性は変わらない一方判断資料の変化・進歩により認識のアプローチは変わる、ということはあるでしょうね

つまり実際の法の明晰性の具備の有無と、我々の認識に齟齬が生じることはあり得るでしょう(そして我々はそれに気づかない)ということっす。 もしくは法の存在論自体に関わりますが、法の変遷により法内部での法的価値の変遷もあるんじゃないですか

 

?:なるほどね、認識論上は閉じたものではいられないけれども、存在論上は閉じたものでありうる、ということか。両者の相関性も問題になるし、明晰性に絞れば、この概念自体が認識と深く相関している気もするので、この点も論点になるけど、でも発想としては面白い。安藤先生がどう処理するか待ち遠しい。

 

ワイ:(深く頷く)

 

 

【やり取り②】

ワイ:法の認識の順序として、細かな部分ではなくフラーの挙げる徳性のようなものがまず先に認識されるあるいはされないということになるのかな

 

??:結局、法解釈における「結論の妥当性」は「L.L.フラーのいう法の徳性を備えていること」に尽きる、ということ?

個人的には「すわりのよさ」みたいなより実体的あるいは道徳的な価値の吟味を含むように思うけど(排除的法実証主義をとるかどうかで決着かもですが

 

ワイ:仮に解釈された法の適用後の世界の事態の道徳的評価を含む概念であるとすれば、排除的法実証主義かどうかで変わると思いますが、??ニキが挙げるような「すわりのよさ」的な解釈時の吟味は、よく分析すればフラーの徳性のいずれかを満たすかを吟味してることに還元されるのではと考えています

実況!パワフル司法試験

え~みなさんこんにちは。

 

なにはともあれ司法試験を終えたので、記憶が残っているうちに試験中感じためちゃくちゃどうでもいいことを思いつくままに残しておこうかと思います。ちなみに試験自体へのアドバイスや感想は一切ないのでそのように。

 

 

・試験地はマイドーム大阪だったのですが、これどう思います?

 

・ ワイはすぐ近くのアパホテルを使いました。利便性がよく隣にやよい軒があるので、受験生におススメです。アパホテル最強説 思想信条の観点から使わない人もいるかもしれませんが

 

てか、あの貰えるペットボトルの水に社長の顔をのっけるのはどうなんだ。「私が社長です」←うるさい でも結構あの社長嫌いじゃない…部屋に社長の本が置いてあってパラ見したんですけど、会長がバキバキの右翼だからこれもかなと思いきや結構普通の自己啓発本って感じでワイの中でちょっと好感度があがってしまった

 

 

・前日夜、初日夜、3日目夜とやよい軒を利用したんですけど、マジで司法試験受験生に占拠されててオモシロかった 空間に占める法律力(リーガル・パワー)の値がすごく高い気がした

やよい軒でのワイのおすすめは野菜たっぷり肉野菜定食です。いま定食と打つときに抵触と打ち間違えました パソコンが法律に飼いならされている

とろろは150円(高い、もっと安くしろ)ですけど毎回つけてました。やよい軒ってご飯お替り自由じゃないですか、生卵をつけるのはリスクがあるので受験生はとろろを注文しましょう。ご飯は誤判と打ち間違えた

 

 

・模試の時机がガタガタしまくるやつでふざけんな、いい加減にしろとか思ってて危惧してたんですけど、当日の机は全然違うやつでガタガタしなかった 受験生は安心してください

初日着席するとき隣の人に「よろしくお願いします~」とかいって挨拶しといた これによりなんかリラックスして試験に臨むことができるのである(受験豆知識)。周り友達ばっかりでなんも緊張しなかったけど

 

・試験開始一分前に試験監督とか監督補助員が、一番前の真ん中にいるボス監督みたいな人に向かって、人差し指を立てて一斉に合図を送るんですけど、毎度毎度それが面白くて笑いそうになっていた これは受験生あるあるではなかろうか(ない)

てか試験中は試験室内で水とか飲んでいいのに、試験前は飲めないのなんなん?著しく合理性を欠くのではないか?

 

 

ツイッターにも書いたんですけど、中日は昼にドトールで勉強してたんですけどコーヒーがクソマズだったうえにそのあと入ったつけ麺屋で上地雄輔のミツバチがかかっててさんざんだった あんなん聴いてるヤツと友達にはなれそうもない

 

 

・やっぱ受験生たるもの、「平成30年度司法試験試験場」みたいな看板の前で写真とりたいじゃないですか これは有益情報ですが試験後には看板は撤去されてるので、撮りたい人は朝会場入りするときに撮りましょう。

 

 

・万年筆を買ったにもかかわらず試験は結局SARASA0.5で臨んだ。なんてこった

ワイはSARASA原理主義者なので、ジェットストリーム派の人は今すぐこの記事を閉じるか、SARASAに変更してください SARASAは神

 

 

法哲学は司法試験に一ミリも役にたたない

 

以上です。

 

 

 

 

 

ぼくらはみんな蛋白質の塊

「無道徳者のいわば双対として、道徳判断に於いて誤るが道徳的に正しく行為する主体、というものもありえよう。そのような主体は認知的にはともかく道徳的に有徳(virtuous)なのである。この徳性は行為者(要するに蛋白質の塊であるわけだが)の物理的傾向性の問題である。有徳な人は息を吸うように水を飲むように正しい(或いは善い)行為をなすだろうが、その行為に当たって別段「私は~すべきである」といった判断を下しはしない。理性によって判断し意志によってそれに従う自由意志を持った主体、の如き描像を捨てれば外在主義に敢えて抗すべき理由などない。」

 

安藤馨「あなたは「生の計算」ができるか?−市民的徳と統治」より

 

 

ラチオ06号

ラチオ06号

 

 

 この文章の意味がちょっと難しくていまいちわからないという声を耳にしたので、とりあえず論文内における文脈を無視して、この文章だけに限って簡単なワタクシなりの理解を置いておこうと思います。理解の一助になれば幸いです。

 

 

無道徳者(amoralist)とは、真摯に道徳判断を行っているにもかかわらずそれに対応する動機付けが伴わない者を指す。例えば、太郎が次郎に殴りかかっている状況を見て「私は太郎を止めるべきだ!」と真摯に判断したにも関わらず、制止行為をとるような動機を全く生じないような者を想像してみると良いだろう。

 

直ちに違和感を覚えるように、そのような判断は本当に真摯になされたといえるのか疑わしく、無道徳者など想定しうるのだろうか。

 

道徳判断に関する動機付け判断外在主義(以下、外在主義)をとるような外在主義者はこのような無道徳者の存在を認める。ここで注意すべきは、そのような者が「存在しうる」ということであり、現在そのような者が存在しているとか過去に存在していたとか道徳判断はそのようなものであるというようなことを言っているのではない。つまり、真摯な道徳判断とそれに対応する動機付けとの間の「必然的な」連関を認めないといっているのである。

 

我々が行為をなす際の動機であったり行為への欲求であったりというものは結局のところ蛋白質の塊である脳の働きによるものであろう。そしてたとえば行為の動機付けをつかさどる大脳辺縁系の一部を何らかの事情により損傷した者が、無道徳者となるという想定は可能であろう。そのような者は脳の一部が損傷していることによって、まさに「真摯に道徳判断を行っているにもかかわらずそれに対応する動機付けが伴わない」という道徳的傾向性を備えるに至っているのである。

 

このような観点から、道徳的傾向性の存在可能性(の真否)については進化生物学や脳神経科学といった分野によって解明ないし一般的説明が与えられる問題といえる。

 

上記を前提に今度は逆に有徳な者(Virtuous people)について考えてみよう。この者は真摯に道徳判断をしていない、もしくはそもそも道徳判断をしていないにもかかわらず、正しい行為をなす動機付けを有している。有徳な者はたとえば太郎が川で溺れている状況を見たとき(このとき太郎を助けることが道徳的に正しい行為であるとする)、仮にその者が「太郎を川で助けるという行為は道徳的に間違っている」という認知的判断を有しているとしても、もしくはそもそもなんらの道徳判断を有せずとも、太郎を助ける動機付けを有するだろう。

 

このような者の存在可能性は無道徳者のそれに比べ想定しやすいだろう。太郎を助けたあとその有徳な者に対し「なぜ太郎を助けたのですか?」と尋ねた場合、その者は「それが正しいと思ったから」などと答えたりそう思ったりするとは必ずしも限らず、「理由なんてないけど…」といったり「なんとなく」といったり「体が勝手に動いていた」ということの想定は容易だろう(し、実際にそのような者は存在するだろう。マザーテレサとかそうだったんじゃない?知らんけど)。

 

上記を見てわかるように、客観的に見て道徳的に正しい行為をなすにあたって、必ずしも道徳判断とそれに伴う動機付けを経由する必要はないといえることがわかる(経由することを否定するのではない)。

 

 

外在主義に対する批判・反論・再反論などの紹介はまた今度。(メタ倫理学入門には言及が乏しい)

乃木坂46「きっかけ」と近代立憲主義のアポリア

システムがそれなりに成熟していれば、意識的な決断は必要ない。これだけ相互扶助のシステムがあって、これだけ生活を指示してくれるソフトウェアがあって、いろいろなものを外注しているわたしたちに、どんな意志が必要だっていうの。問題はむしろ、意志を求められることの苦痛、健康やコミュニティのために自身を律するという意志の必要性だけが残ってしまったことの苦痛なんだよ。

伊藤計劃『ハーモニー』より

 

www.youtube.com

え~こんにちは。以前こんなことを言ったことがあります。

しかし誰もやってくれないので、アンドゥムルメステール(安藤馨先生のファンのことです)であるわたしがやることにしました。なぜ。

以下で引用する乃木坂46「きっかけ」作詞者は秋元康氏です。(氏名表示)

歌詞全文はこちら

きっかけ - 乃木坂46 - 歌詞 : 歌ネット

 

 

 

わたしはこの曲が大好きなのですが、それは歌詞の中に近代立憲主義アポリアを見るからなのです(驚異の論理展開)。

moominpapa.hateblo.jp

過去エントリにて、蟻川恒正『尊厳と身分‐憲法的思惟と「日本」という問題‐』所収の「「命令」と「強制」の間‐最高裁判例に潜在する「個人の尊厳」」を紹介しました。そこで触れられている入江裁判官や、そして樋口陽一‐蟻川恒正先生が暴露・強調する「強い個人」の観念、「自分のことは自分で決める」という観念は、近代立憲主義の中核たる「個人の尊厳」観念から要請されるとともに近代的自由との緊張関係を孕むものとされます。

 

「きっかけ」の歌詞においては、まさに上記のような近代立憲主義アポリアが卓抜した比喩によって表現されています。

 

Aメロ・Bメロ・Cメロ・Dメロにおいては一貫して、信号機を見、周囲を見ながら横断歩道を渡る一人の心理描写がなされる。

ふいに点滅し始め急かすのかな

いつの間にか少し早歩きになってた 

自分の意思関係ないように誰も彼もみんな一斉に走り出す

 ここでは、信号機に「急げ」「進め」と言われた自分が「いつの間にか」早歩きをするようになっていること、そして周囲に「急げ」「進め」と言われた人々が一斉に走り出したことが描写されている。この描写は後のサビにおいてもなされている。

ほら人ごみの誰かが走り出す

釣られたみたいにみんなが走り出す 

 信号機に命じられること、命じられることによって横断歩道を渡ることについての心理もまた表現される。

進みなさいそれから止まりなさい

それがルールならば悩まずに行けるけれど…

「進め」「止まれ」と命ずるルールがあれば、自分は自分の行為理由をあれこれと思い悩む必要はなくなる。法に権威性を認めるということは法に従うこと以外の行為理由を排除するということ。

 

「自分」そして「みんな」の中には己の意思をきっかけとして横断歩道を渡り始めた者はいない。

別に自分で決断する必要なんてないし、既存のルールに従っておけば、周りに合わせておけば、それで何も問題ない。自由とは自分で何かを選び取ることができることだけど、何かを諦め何かを選び取ることはいつだって苦しい。「自由からの逃走」とかってエライ人も言ってるじゃないか。

 

今まではこう、考えていた。でも「私」は常に変わっていくし、変わっていきたいとも思っている。昨日の私と今日の私が違うように、今日の私と明日の私は違うはずだ。未来において他律的な私ではなく自律的な私になることを、今この瞬間を生きる「私」が欲求しているのだ。

 

私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。そして、その後は?

カミュ『異邦人』より

 

 

決心のきっかけは理屈ではなくて

いつだってこの胸の衝動から始まる

流されてしまうこと抵抗しながら

生きるとは選択肢たったひとつを選ぶこと

 

 

理屈がきっかけの決心だって他律的だ。そうじゃなくて、理屈に従いたいという私の欲求によって、私は決心するのだ。選ばされるのじゃなく選ぶということ、動かされるのじゃなく動くということ、生かされるのじゃなく生きるということ。「自分のことは自分で決める」っていうのはそういうことでしょ。きっかけはいつだってこの胸の衝動からじゃないといけない。生きるのではなく生かされる時、そこに尊厳はあるといえるのだろうか?

 

 

…興奮して途中から完全に文体が変わってしまいました。申し訳ありません。

以上に見たように、「きっかけ」の歌詞には、他律的な私から自律的な私へと移ろう「私」の心情がはっきりと描写されているのです。

 

憲法的思惟』におけるmob-reasonの相克、入江意見における「判決に従うか従わないかは自らがすべての責任を以て決するのでなければならない」という峻烈な信念と「きっかけ」はいずれも、「自分のことは自分で決める」ことへの苦痛と「自分のことを自分で決めない」ことへの抗拒がなんであるかを、我々に突き付けている。

 

「結論の妥当性」についてのメモ

※以下、見えにくい前提がちょいちょいあります

 

「法解釈においては、結論の妥当性に注意を払わなくてはならない。」

 

「法は道徳から独立して真正に実在する、ある一つの価値領域・規範領域」(安藤馨「メタ倫理学と法概念論」)であるとすれば、ここでの「結論の妥当性」とは、法適用後の世界の事態に対する仮定的な道徳的評価を意味しないように思われる。なぜならここでは、結論が妥当ではない法解釈はそもそもそのような法解釈は誤りである(すくなくとも正しいとは言えない)ことが含意されているように思われるからである。

 

そうではなく、ここでの「結論の妥当性」とは、真正に実在する法規範を我々が認知する、その認知が正しいかどうかを評価する「検証」のための道具的概念ということができる。

ただし、我々によって認知されようとするところの法命題の真理値は法外在的な道徳によっては何ら左右されない(排除的法実証主義)ため、ここでなされるのは法それ自体に内在する非道徳的な徳性、すなわち一般性や明晰性といった法的徳性に合致した認知であるのかという検証(に留まるもの)である。(法的徳性に合致しない認知であればそれはそもそも−有徳なはずの−法を正しく認知したとはいえないと評価することができる。)

 

こんな感じかな?適当やけど少なくともわいにとっては認識的に正当です。

 

 

追記: ちなみにロン・フラーの挙げる法内在道徳は①一般性②事前公布③遡及法の禁止④明晰性⑤無矛盾性⑥実行可能性⑦安定性⑧公権力行使との合致 である。

 

追記の追記:徳性を備えていない法の存在も当然想定できるが、その場合の法の解釈において「結論が妥当」かどうかがマジに問題になるとは思われず、解釈方法への批判というよりは直接法自体への法的な又は道徳的な批判として問題は顕在化するだろう。

蟻川恒正『尊厳と身分』かっこいい文章紹介

え~こんにちは。今回は蟻川恒正『尊厳と身分‐憲法的思惟と「日本」という問題‐』がいかに最高であるかについてレビューしようかと思ったのですが、めんどくさくなってしまったのでやめます。

 

ところで蟻川先生は『憲法的思惟‐アメリカ憲法における「自然」と「知識」‐』という修論?助手論?も以前出版しておりまして、この『尊厳と身分』と一緒に復刊されるまではえげつないプレミアがついてたんですよね(密林で三万くらい)。

わいは地元の本屋にてこのプレミア版の憲法的思惟を見つけ定価で即買い、すぐさまツイッターの人に1万円で売りさばくという最悪なことをしたことがあります。尊厳も身分もあったもんじゃないですね。よろしくお願いします。

 

t.co

 

尊厳と身分――憲法的思惟と「日本」という問題

尊厳と身分――憲法的思惟と「日本」という問題

 

 

 「個人の尊厳」をテーマとする12本の論考が収録されているのですが、一通り読んだところ一番好きだったやつは『「命令」と「強制」の間‐最高裁判例に潜在する「個人の尊厳」‐』です。これは謝罪広告判決の入江意見にフォーカスしたものですので、みなさんにおかれましては判決原文をお手元にご用意いただければと思います。

今回は上記論考内でハチャメチャにかっこいい文章を発見したので、それを皆さんに紹介したいと思った次第です。若干長いですが以下に引用します。

 入江意見は、「良心による倫理的判断」という語、あるいは、「倫理的判断」ないし「倫理的の判断」の語を繰り返し使用しているが、それらの後に入江裁判官が託した意味は、「匹夫の志」の警句が象徴する通り、誰も奪うことができないものであるということである。その窮極の含意は、当該個人当人によってもそれは奪うことができないという点にある。

 自分を誤魔化すことが、ときに、人にはある。自らの良心を偽る瞬間といってもよい。それを入江意見は許さないのである。

 入江意見は、被告人(上告人)に謝罪広告を命ずる「本件判決は上告人の任意の履行をまつ外は、その内容を実現させることのできないもの」であると言い、「従つて上告人は本件判決により強制的に謝罪広告を新聞紙へ掲載せしめられることにはならない」と言う。これは、裁判所の判決を受けた被告が判決に従わなくともよく、実際、従わないことができるということである。だが、「個人が善悪について何らかの倫理的判断を内心に抱懐している」場合には、自らの判断に反する判断を表明するよう国家から命じられても従う必要はないとする入江意見の意味するところは、もっと根源的である。入江意見に直截の言明はないけれども、そのような場合には判決に従ってはいけないというまでの底意が窺われるのである。誰にも奪うことのできない「良心による倫理的判断」である限り、当人自身によってもそれを奪うことはできないということを、入江裁判官は、誰よりも自覚していたと思われる。そうである以上、事は、単に判決による命令に従わなくともよいということではない。判決に抗する覚悟があるや否やが問われているのである。その覚悟のない者は、心ならずも判決の命令に屈することになるとしても、「強制」執行が予定されないとされる以上、被告は「自発」的に謝罪したという効果が発生することに耐えなければならない。「自発」的謝罪であるのだから、謝罪広告を命じても違憲でないのは当然であろう。

 入江裁判官のこのような構想は、何に起因するものであろうか。私が思うに、それは、「良心による倫理的判断」に関しては、たとえ国家が個人に対し命令をもって自ら(国家)に従うよう求めてきた場合であっても、最後的責任を負うのはどこまでも当の個人でなければならないとする峻烈な信念である。…(p221~223)

 内容については論文を実際に全部読んでもらうとして、わいのおすすめポイントを紹介します。

「自分を誤魔化すことが、ときに、人にはある。」←これ

読点、読点の使い方が…なんてかっこいい…

特に、二つめの読点ですね。

「自分を誤魔化すことが、ときに人にはある。」

でもまあ文章としてはいいですし、

「ときに、自分を誤魔化すことが人にはある。」

でもいいでしょう。でもかっこよさポイントは大幅にダウンしてしまいます。

そうではなく、「自分を誤魔化すことが、ときに、人にはある。」これですよ。

これから蟻川先生のことは読点の魔術師と呼んでいきたいと思います。

 

 

いや、ちょっとまってくれ、いま気付いたのですが、これは読点の使い方ではなく、「ときに」の使い方なのではないだろうか。英語で言うsometimesですか。あ~~~そうやな、英語的挿入方法やな、これはそうやな、あれ、英語でよく意味わからんと思っているhoweverを間に挟むやつでんがな。

 

ともあれ、みなさんもぜひ、本書を手に取ってみてください。おすすめです。

 

サムタイムズ蟻川