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畢竟独自の見解

雑記:投票推進言説について

衆議院が先月21日に解散、今月14日が投票期日となった。これを受けて(いや最近は常に、かもしれない)、至る所から「選挙に行こう!」「若者の声を政治の場へ!」というような言説が、純粋無垢な使命感を帯びて聞かれるようになってきた。彼らの其のような実直さあふれる呼びかけには、直観的に、多くの人が賛同しているように感じる。このような、「投票推進言説」をカマす人に、「どうして選挙に行かないといけないの?」「選挙にいくメリットは?」と尋ねると大抵このような返事が返ってくる。

① 「塵も積もれば山となる」ように、一人の投票で結果が変わる!
② 最善の候補者がいなくても、次善の候補者に投票することで、現状の勢力を相対的に削ぐことができる
③ 投票を棄権すること・白票を投じることは現状肯定であり、そうすると政治を批判する資格がなくなる


 こういう返事を聞いてどう感じるだろうか?結構多くの人がなんだか説得された気になって、うーん言われてみればそうだなぁ、いい候補者がいないけどなんとかマシなやつを見つけて投票するかあ、と思っちゃいがちではないだろうか。
 僕がこの投稿で言いたい結論を先に述べると、「こんな投票推進なんてクソくらえ、投票したくないならしないでよい」ということである。個人的にこの手の投票推進言説に対してイライラしているので、大勢を占める投票推進言説へのカウンターアタックとして、上記投票推進言説への反論を行う。

 まず、上記①の、「塵も積もれば山となる」論についてどう思っただろうか。なんとも美徳を感じる素晴らしい主張のように思えるが、僕に言わせると偽善的であり得ない。こんなことを言うと多方面から怒られそうだが、「自分の一票ごときでは何も変わらない」。現状、与党と野党との得票率・支持率には大きな開きがあり、このような状況で投じられる自らの一票に、投票結果を変えるような影響力は何もない(当たり前といえば当たり前だが)。自らの一票が投票結果に影響力を持つのは、対立する候補者の得票数が並んでいる場合か、一票差がついている場合“のみ”である。
このようなことを言うと、「投票推進言説」論者から、「そんなことを皆が考え、投票に行かなくなったらたいへんだろ!」という再反論があるかもしれない。しかし、残念ながらこのような再反論は成功しているとは言えないだろう。なぜなら、みんながそんなことを考え始め、投票率が下がり始め、上記のような、現実に自らの投票行動が選挙結果に影響力を持つ可能性が高まってくると、その時は投票に向かうようになるだろうからである。「政党の得票差に大きな開きがある時の投票行動」と「得票差が殆どない時の投票行動」は功利的にRelevantな違いを持つことを見逃してはいけない。「得票差が殆どない時の投票行動」には、皆が「先だって投票行為をやめた」という通時的な累積効果を読み込む必要がある。
 
 次に、上記②の「最善の候補者がいなくても、次善の候補者に投票することで、現状の勢力を相対的に削ぐことができる」という理由はどうだろうか。この理由は換言すると、「自らの投票行為で得票率を上げ、現在の(組織票を有するような)与党ないし既得権益の位置を相対的に低下させる」ことを意味するのだろう。
しかし、前述したように、現状の政党勢力図を鑑みると、たとえ自らの投票行動で得票率が0.0000000001%上がったとしても、それには何の意味もない。たとえば政治家が、「若年層の得票率がかなり高いな、なら若者への政策を打ち出していく必要があるな」というように考えるのは、あくまで若年層とそれ以外の年齢層の得票率が拮抗しているような時“のみ”だろう。そして、その時の投票行動は、現状での投票行動とRelevantな違いがある。
 もしかしたら現状の政党が持つ「組織票」なんてのは気に食わん!と思っている人がいるかもしれないので付言すると、世の中の投票は全てある種の組織票である、と述べておく。そのような人が想定する「組織票」とはおそらく「ある会社が合議のうえ社員一体となって行う投票」のようなものだろう。しかし、僕のようないわゆる「若年層」の意見を政策に取り入れてもらうには「若年層の組織票」が必要だし、子育て推進政策を政策に取り入れてもらうには「子持ちのパパママの組織票」が必要だろう。つまり、「組織票」はその「組織」の抽象度の違いで何とでも言えるのであり、したがって全ての投票行為は「ある組織の利益」を達成するために行われる。

最後に、上記③「投票を棄権すること・白票を投じることは現状肯定であり、そうすると政治を批判する資格がなくなる」というような言説はどう考えられるだろうか。
我々には言論の自由憲法21条1項)が保障されている(今後どうなるかはわからないが)。政治について批判・議論を行うことができるのはこのような自由が個人に保障されているからだが、投票を棄権・白票を投じることでこの自由が奪われるのか?投票の棄権・白票投票と言論の自由に基づく政治的言論への参加には関連性は無い。こういった類の言説の背後には、「批判する権利があるなら、それの前提となる義務がある」という化石的思想があるように思えるが、そういった「権利には義務が伴う」命題は論理必然ではないし、そもそも選挙権と言論の自由は根拠条文を異にする。
また、「投票を棄権・白票投票することと現状肯定」との間にも因果性は無い。A,B,Cという候補者がいて、「全員嫌だ!」と思って投票をしなかったことは、結果当選したAを信任したことには絶対にならない。例えば、自分の父親と母親が人質に取られ「どちらかを殺す。しかしお前たちが選んだほうは殺さないから選べ」と言われ、自分はどちらも嫌なので選ばなかったが、他の数名が父親を選び、結果母親が殺された。このような時に「お前はどちらも選ばなかった。つまり母親を殺すことを黙認したのだ」と言えるだろうか?

このように、投票しなければ黙認だといわれ、逆にしぶしぶ「次善の候補者に投票」し得票率を上げると、高い得票率の下当選した候補者であり正当に国民の支持を得ている、とされる。いずれにしても当選者の正当性を論ずることに利用するだけであり、欺瞞である。
また、得票率が高いことで生じている問題もあるように思える。「一票の格差」という問題を聞いたことがあるかもしれない。地域によって一人が有する一票の価値が異なり、正確に国民の実態に合った議員数が選出されていない、という問題である。これは投票価値の平等に反するとして幾度となく訴訟が提起されたが、最高裁はこれを違憲無効とせず、「違憲状態」とするにとどめている(違憲無効とすると選挙活動が全て無駄となるし、定数変更の猶予を与える側面がある)。この違憲状態は国会に猶予を与える意味もあるが、加えて「間接民主的正統性を有する国会議員」を裁判所が尊重する、という側面があるように思う。(違憲状態だが)投票率の高い選挙で選ばれた議員は高い正統性を有するので、民主的正統性を有さない裁判所はこれを尊重する(日本で違憲判決が非常に少ないこととも関連する)。とすれば、投票率が非常に低い選挙であれば、最高裁はそのような立法府を過度に尊重するインセンティブは薄まる。したがって、「あえて投票をせず、投票率を下げることで最高裁違憲無効判決を出させる環境を整え、以て一票の格差を改善する」という路は考えられないだろうか?

最後に、冒頭に述べたことを繰り返すと、投票推進なんてクソくらえ、投票したくないならしないでよい。選挙に行くことは義務ではない。個々人の有する権利の行使である。したがって権利を行使するかしないかは個々人の自由である。行きたければ行けばよいし、行きたくなければ行かないでもよい。投票したい候補者がいなければ無理に投票する必要はない。


ー「自由主義とはこの上ない寛容さなのである。それは多数者が少数者に与える権利であり、したがってかつて地球上で聞かれた最も気高い叫びである。自由主義は敵と共存する決意を、しかも弱い敵とさえ共存する決意を表明しているのだ」ー『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット "La Rebelión de las Masas" Ortega y Gasset

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

ー「今度、あなたがこのような「公共の魂を持った」夢見る人々の一人に遭遇したら、その人物が「非常に望ましい目標は、誰もが参加しないと達成されない」と恨みがましくあなたに告げるときには、こう言っておやりなさい。もし、あなたが誰からも自主的な参加を得られないとしたら、あなたの目標は実現されないままのほうが喜ばしいし、他人の生活は、あなたの好きなようにしていいものではないと。」ー
『利己主義という気概』アイン・ランド “The Virtue of Selfishness: A New Concept of Egoism” Ayn Rand

利己主義という気概ーエゴイズムを積極的に肯定するー