メモ
というのは一部の人間にとってはよく聞くフレーズである。これは刑法上において、ある行為とある結果を繋げる因果関係がどのような場合に存在したといえるかを認定する際の「危険の現実化」フレーズである。このフレーズから直ちに以下のテーゼが導かれる。
①ある行為トークンにはそれに対応した危険性が内在している
「自由意思に基づいた行為に対して、刑を科する」
これは旧派刑法学の採用する行為主義のテーゼである。この行為主義テーゼを採用するということは、以下が前提されている。
②自由意思と決定論は両立する。
これに対してロンブローゾが有名な新派刑法学は以下を前提する。
②’自由意思と決定論は両立しない。
そしてこの固い決定論テーゼを前提として、新派刑法学は以下のテーゼを採用する。
③行為者の有する危険性に対して、刑を科する。
すぐ気づくように、①と③のテーゼはよく似ている。
①においては「行為」に内在する危険性を、③においては「行為者」に内在する危険性を問題としている。しかしながら、周知のとおり現行刑法学は新派刑法学を拒否し、③のテーゼを退ける。③のテーゼの退け方にも大きく二種類あるように思える。
③’行為者は危険性を内在するが、刑は科さない。
③”行為者に危険性は内在しない。
当然、現状行為者に刑が科されていることから、現行刑法学は③’を採らずに③”を採って③テーゼを退けているという推論が働く。
そこで、現行刑法学の採る①テーゼと③’テーゼを組み合わせると以下のテーゼが導かれる。
④行為者に危険性は内在しないが、なした行為には危険性が内在する。
この現行刑法学がとっていると思われる④テーゼをひとまず置いておいて、「危険性」とは何か見ておく。端的に言うとここでの「危険性」とは「法益侵害のしやすさ」という傾向性のことを指しているといえる(紙の「燃えやすさ」、ガラスの「割れやすさ」と同様)。
すなわち、④テーゼとは、ある行為者Xについて、Xは「法益侵害しやすくない」が、Xのなしたある行為φは「法益侵害しやすい」ということを指している。
奇妙である。
「~しやすい」という傾向性が帰属するのは現実の世界内に一定の物理的範囲を占める物質のはずである(この世に存在する物質を指示さない純粋な概念νについて「~しやすい」ということは甚だ無意味であるばかりか意味不明である)。そして、ある行為φは物質であるところの行為者Xによってなされる(とされている)のであるから、その行為者Xに対応して世界内に一定の物理的範囲を占めるはずである。
端的に疑問を言えば純粋な、一般名詞的な「行為」はこの場面において問題になり得ず、問題となるのは常に「(特定人)の行為」なのであるから、
ある行為者Xは世界内に一定の物理的範囲を占める⇒ある行為者Xのなしたある行為φは世界内に一定の物理的範囲を占める
が常に成り立つはずであり(これは作為的・不作為的でも一緒)、このことからすれば、ある行為φがある時点において世界内に一定の物理的範囲を占めている場合、その物質は「行為者X」に帰属可能である。
とすれば、なぜ④テーゼは「法益侵害しやすさ」という傾向性を、行為者Xとその行為者がなした行為φに同一に帰属させず、さも別の物質であるかのようにふるまっているのだろうか。