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畢竟独自の見解

メタ倫②

前回道徳判断についての認知主義・非認知主義の対立を見ました。

次に、判断に伴う動機づけの内在主義という立場を紹介することにします。

 

例えば、あなたが「AがBに殴りかかっている」状況を見て「私はAを止めるべきだ!」という「べき」判断をしたとしよう。その「べき」判断をした際、同時に「Aを止めよう」という動機づけがなされていないとすると、あなたは真摯に「私はAを止めるべきだ!」と判断したといえるのだろうか?つまり、「私はAを止めるべきだ!まあ止める気全くないけどな!」という時あなたは真摯に「べき」判断をしているだろうか?

このように、真摯な道徳判断には通常それに対応した動機付けが伴うと考えられる。このことを動機づけの判断内在主義という。(逆に、対応する動機づけが必ずしも伴わないとする見解を外在主義という)

 

 

認知主義/非認知主義、内在主義/外在主義を見たうえで、最後に動機づけのヒューム主義を見てみよう。

動機づけのヒューム主義は、動機づけには欲求(Desire)が必要とする立場である。これは結構説得的な立場ではないだろうか。先の例によれば、「Aを止めよう」という動機はまさにDesire(Aを止める)という態度そのものであって、Believe(Aを止める)という態度ではないだろう(Aを止めよう!という態度が、その後Aを実際に止めたか否かによって真だった!偽だった!ということがいえるようになるというのは馬鹿げているように思える)

 

さて、ここまで紹介した道徳判断についての立場のうち、認知主義・内在主義・動機づけのヒューム主義を同時に採用すると、矛盾が生じることが知られている(ワイは知りませんでした)(当然)

つまり…

1.道徳判断は信念(Believe)である(∵認知主義)

2.道徳判断には動機づけが伴う(∵内在主義)

3.信念だけでは動機づけは伴わない(∵動機づけのヒューム主義)

4.道徳判断には動機づけは伴わない(∵1&3)

5.矛盾(∵2&4)

 

従ってこのトリレンマを回避するため、少なくとも一つは「認知主義・内在主義・動機づけのヒューム主義」を棄却しなければいけないことに…。(それぞれの考え方をもう一度見てください、どの立場も説得的で棄却しづらいなあと思いませんか?)

つまり、内在主義・動機づけのヒューム主義が説得的だなあと思う場合、認知主義を棄却し非認知主義陣営に与しなければならなくなって、認知主義・動機づけのヒューム主義を説得的だと思ったら、内在主義を棄却し外在主義を擁護する必要がある、ということです。

 

ここまで書いてきてあれですけど、メタ倫理、激アツじゃないですか?だって、「認知主義陣営v.s.非認知主義陣営」とか「内在主義陣営v.s.外在主義陣営」とかやってるんですよ?最高…(遠くを見ながら)

 

次回に続く