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畢竟独自の見解

メタ倫③

「認知主義・内在主義・動機づけのヒューム主義」を同時に採用した場合に生じるトリレンマを回避するためにこれらを少なくとも一つは棄却しなければならない。そこで、最初に認知主義を棄却し非認知主義を採用する立場を紹介しよう。

 

復習:非認知主義→道徳判断は欲求(Desire)という態度である

認知主義を棄却するというのは、直観的に一番最初に思いつく選択肢ではないだろうか(少なくともワイはそうだった)。

なぜなら、道徳判断について認知主義を保持するということは、「~が悪い」というような判断について、それが世界の事態によって真になったり偽になったりするということであるから、その判断を真とするような世界の事態、つまり「~の悪さ」というような道徳的事実の存在を世界の事態として認めることになるからである。(「~すべき」という判断については対応する「なされるべき性」というような事実が世界に存在しうることを認めるということ)(なお、認知主義を採りつつそのような道徳的事実の存在を認めない立場も存在する。錯誤説error theory))

この点において、非認知主義を採るということは結構直観適合的ではないだろうか(少なくともワイの直観には適合している)。

 

非認知主義陣営は、内在主義・動機づけのヒューム主義を保持しつつ、認知主義を棄却している。従って、ここで非認知主義が認知主義側の弱点として問題にしている「道徳的事実」とは、、、

道徳的事実→それを認識しただけで我々が何かに動機づけられるような事実(=指図的)

ということになり、認知主義陣営はこれを世界の事態として存在しうることを認めることになる(錯誤説を除く)。非認知主義は、世界を見渡した時にそのような事実なんぞ存在しないじゃないか!ええかげんにせえ!として認知主義を拒否したいわけである(簡略化してます)。

しかし、このような非認知主義陣営にも弱点が存在する。絞って言えば、①我々のしている道徳判断が真理値志向的ではないことになってしまう②道徳的不同意の事態をうまく説明できない、というものである。

①我々のしている道徳判断が真理値志向的ではないことになってしまう

我々は、普段「Aは悪いやつだ!」という道徳判断を為す際、自らのその判断は真である、と思っているのではないだろうか(=真理値志向的)?これに対し、その判断を非認知主義的に分析すると、もはやその道徳判断について真理値を持たないことを我々は受け入れていることになるのであった。しかしこれは我々の普段なしている道徳判断と果たして整合的だろうか?

 

②道徳的不同意の事態をうまく説明できない

我々は普段の生活の中である対象Xを見たとき(「AがBを蹴り飛ばしている様」とか何でもよい)、「Aは悪いやつだ!やめるべきだ!」「いや、Aには許されるところがある、やめる必要はない」というような衝突する道徳的談話をごく当たり前に行っている。しかし、非認知主義を採用した場合、上記の例は其々「Desire(Aは悪い∧蹴るのをやめる)」「Desire(Aは悪くない∧蹴るのをやめない)」といった両者の非認知的態度、つまり情動を相手方に表出しているだけであると分析される。このように分析された両者の談話はもはや衝突していないことになる(互いのDesireの表出にすぎず、相手方の情動に対しては「お前はこう言う、でも俺はこう言う、俺はそういう人間だ」と言うことができ、容易に両立する)。しかしこのような分析は妥当だろうか?

 

このような批判に対しては、非認知主義陣営からの反論がある。以下にみてみよう。

①道徳判断が真理値志向的ではないことになってしまう

この批判に対しては、真理のデフレ主義と呼ばれる立場からの反論がある。デフレ主義は一般に、truthmaker principle(ある命題についてそれを真か偽かにならしめるtruthmakerが存在するという原理)を拒否し、disquotational principle(ある命題pについて「"p"is true.」と言う場合、それは単に「p.」と言っていることに等しいという原理)を受け入れる。

このような見解からすれば、

「「Aは蹴るのを止めるべき」は真である」ということはつまり「Aは蹴るのを止めるべき」ということと何ら変わりない。そして「Aは蹴るのを止めるべき」というのは非認知的態度の表出と分析することになるので、結局我々の分析によっても、-単に引用符が解除されているだけでー道徳判断の真理値志向性を棄却することにはなっていないのだ、と反論することになる。(認知主義陣営からの再反論は省略)

 

②道徳的不同意の事態をうまく説明できない

これについては、命令説という立場から反論がなされる。通常非認知主義陣営は「Aはφすべきだ!」という判断を「Aはφしてほしい」という情動であるとして分析する。命令説は、これに付け加えて、「Aはφしてほしいと私は思う、あなたも賛成しなさい」という相手に対する命令も同時に表出されている、と分析するのである。このように理解された我々の道徳的談話を見ると、「Aはφしてほしい、あなたも賛成しなさい」「いやです」という衝突が説明可能なように思われる。従って、道徳的不同意の事態は説明可能なのであるエッヘン、と反論するのである(認知主義陣営からの再反論は省略)。

 

長くなってきたので次回に続く