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畢竟独自の見解

乃木坂46「きっかけ」と近代立憲主義のアポリア

システムがそれなりに成熟していれば、意識的な決断は必要ない。これだけ相互扶助のシステムがあって、これだけ生活を指示してくれるソフトウェアがあって、いろいろなものを外注しているわたしたちに、どんな意志が必要だっていうの。問題はむしろ、意志を求められることの苦痛、健康やコミュニティのために自身を律するという意志の必要性だけが残ってしまったことの苦痛なんだよ。

伊藤計劃『ハーモニー』より

 

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え~こんにちは。以前こんなことを言ったことがあります。

しかし誰もやってくれないので、アンドゥムルメステール(安藤馨先生のファンのことです)であるわたしがやることにしました。なぜ。

以下で引用する乃木坂46「きっかけ」作詞者は秋元康氏です。(氏名表示)

歌詞全文はこちら

きっかけ - 乃木坂46 - 歌詞 : 歌ネット

 

 

 

わたしはこの曲が大好きなのですが、それは歌詞の中に近代立憲主義アポリアを見るからなのです(驚異の論理展開)。

moominpapa.hateblo.jp

過去エントリにて、蟻川恒正『尊厳と身分‐憲法的思惟と「日本」という問題‐』所収の「「命令」と「強制」の間‐最高裁判例に潜在する「個人の尊厳」」を紹介しました。そこで触れられている入江裁判官や、そして樋口陽一‐蟻川恒正先生が暴露・強調する「強い個人」の観念、「自分のことは自分で決める」という観念は、近代立憲主義の中核たる「個人の尊厳」観念から要請されるとともに近代的自由との緊張関係を孕むものとされます。

 

「きっかけ」の歌詞においては、まさに上記のような近代立憲主義アポリアが卓抜した比喩によって表現されています。

 

Aメロ・Bメロ・Cメロ・Dメロにおいては一貫して、信号機を見、周囲を見ながら横断歩道を渡る一人の心理描写がなされる。

ふいに点滅し始め急かすのかな

いつの間にか少し早歩きになってた 

自分の意思関係ないように誰も彼もみんな一斉に走り出す

 ここでは、信号機に「急げ」「進め」と言われた自分が「いつの間にか」早歩きをするようになっていること、そして周囲に「急げ」「進め」と言われた人々が一斉に走り出したことが描写されている。この描写は後のサビにおいてもなされている。

ほら人ごみの誰かが走り出す

釣られたみたいにみんなが走り出す 

 信号機に命じられること、命じられることによって横断歩道を渡ることについての心理もまた表現される。

進みなさいそれから止まりなさい

それがルールならば悩まずに行けるけれど…

「進め」「止まれ」と命ずるルールがあれば、自分は自分の行為理由をあれこれと思い悩む必要はなくなる。法に権威性を認めるということは法に従うこと以外の行為理由を排除するということ。

 

「自分」そして「みんな」の中には己の意思をきっかけとして横断歩道を渡り始めた者はいない。

別に自分で決断する必要なんてないし、既存のルールに従っておけば、周りに合わせておけば、それで何も問題ない。自由とは自分で何かを選び取ることができることだけど、何かを諦め何かを選び取ることはいつだって苦しい。「自由からの逃走」とかってエライ人も言ってるじゃないか。

 

今まではこう、考えていた。でも「私」は常に変わっていくし、変わっていきたいとも思っている。昨日の私と今日の私が違うように、今日の私と明日の私は違うはずだ。未来において他律的な私ではなく自律的な私になることを、今この瞬間を生きる「私」が欲求しているのだ。

 

私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。そして、その後は?

カミュ『異邦人』より

 

 

決心のきっかけは理屈ではなくて

いつだってこの胸の衝動から始まる

流されてしまうこと抵抗しながら

生きるとは選択肢たったひとつを選ぶこと

 

 

理屈がきっかけの決心だって他律的だ。そうじゃなくて、理屈に従いたいという私の欲求によって、私は決心するのだ。選ばされるのじゃなく選ぶということ、動かされるのじゃなく動くということ、生かされるのじゃなく生きるということ。「自分のことは自分で決める」っていうのはそういうことでしょ。きっかけはいつだってこの胸の衝動からじゃないといけない。生きるのではなく生かされる時、そこに尊厳はあるといえるのだろうか?

 

 

…興奮して途中から完全に文体が変わってしまいました。申し訳ありません。

以上に見たように、「きっかけ」の歌詞には、他律的な私から自律的な私へと移ろう「私」の心情がはっきりと描写されているのです。

 

憲法的思惟』におけるmob-reasonの相克、入江意見における「判決に従うか従わないかは自らがすべての責任を以て決するのでなければならない」という峻烈な信念と「きっかけ」はいずれも、「自分のことは自分で決める」ことへの苦痛と「自分のことを自分で決めない」ことへの抗拒がなんであるかを、我々に突き付けている。