ワイワイブログ

畢竟独自の見解

ぼくらはみんな蛋白質の塊

「無道徳者のいわば双対として、道徳判断に於いて誤るが道徳的に正しく行為する主体、というものもありえよう。そのような主体は認知的にはともかく道徳的に有徳(virtuous)なのである。この徳性は行為者(要するに蛋白質の塊であるわけだが)の物理的傾向性の問題である。有徳な人は息を吸うように水を飲むように正しい(或いは善い)行為をなすだろうが、その行為に当たって別段「私は~すべきである」といった判断を下しはしない。理性によって判断し意志によってそれに従う自由意志を持った主体、の如き描像を捨てれば外在主義に敢えて抗すべき理由などない。」

 

安藤馨「あなたは「生の計算」ができるか?−市民的徳と統治」より

 

 

ラチオ06号

ラチオ06号

 

 

 この文章の意味がちょっと難しくていまいちわからないという声を耳にしたので、とりあえず論文内における文脈を無視して、この文章だけに限って簡単なワタクシなりの理解を置いておこうと思います。理解の一助になれば幸いです。

 

 

無道徳者(amoralist)とは、真摯に道徳判断を行っているにもかかわらずそれに対応する動機付けが伴わない者を指す。例えば、太郎が次郎に殴りかかっている状況を見て「私は太郎を止めるべきだ!」と真摯に判断したにも関わらず、制止行為をとるような動機を全く生じないような者を想像してみると良いだろう。

 

直ちに違和感を覚えるように、そのような判断は本当に真摯になされたといえるのか疑わしく、無道徳者など想定しうるのだろうか。

 

道徳判断に関する動機付け判断外在主義(以下、外在主義)をとるような外在主義者はこのような無道徳者の存在を認める。ここで注意すべきは、そのような者が「存在しうる」ということであり、現在そのような者が存在しているとか過去に存在していたとか道徳判断はそのようなものであるというようなことを言っているのではない。つまり、真摯な道徳判断とそれに対応する動機付けとの間の「必然的な」連関を認めないといっているのである。

 

我々が行為をなす際の動機であったり行為への欲求であったりというものは結局のところ蛋白質の塊である脳の働きによるものであろう。そしてたとえば行為の動機付けをつかさどる大脳辺縁系の一部を何らかの事情により損傷した者が、無道徳者となるという想定は可能であろう。そのような者は脳の一部が損傷していることによって、まさに「真摯に道徳判断を行っているにもかかわらずそれに対応する動機付けが伴わない」という道徳的傾向性を備えるに至っているのである。

 

このような観点から、道徳的傾向性の存在可能性(の真否)については進化生物学や脳神経科学といった分野によって解明ないし一般的説明が与えられる問題といえる。

 

上記を前提に今度は逆に有徳な者(Virtuous people)について考えてみよう。この者は真摯に道徳判断をしていない、もしくはそもそも道徳判断をしていないにもかかわらず、正しい行為をなす動機付けを有している。有徳な者はたとえば太郎が川で溺れている状況を見たとき(このとき太郎を助けることが道徳的に正しい行為であるとする)、仮にその者が「太郎を川で助けるという行為は道徳的に間違っている」という認知的判断を有しているとしても、もしくはそもそもなんらの道徳判断を有せずとも、太郎を助ける動機付けを有するだろう。

 

このような者の存在可能性は無道徳者のそれに比べ想定しやすいだろう。太郎を助けたあとその有徳な者に対し「なぜ太郎を助けたのですか?」と尋ねた場合、その者は「それが正しいと思ったから」などと答えたりそう思ったりするとは必ずしも限らず、「理由なんてないけど…」といったり「なんとなく」といったり「体が勝手に動いていた」ということの想定は容易だろう(し、実際にそのような者は存在するだろう。マザーテレサとかそうだったんじゃない?知らんけど)。

 

上記を見てわかるように、客観的に見て道徳的に正しい行為をなすにあたって、必ずしも道徳判断とそれに伴う動機付けを経由する必要はないといえることがわかる(経由することを否定するのではない)。

 

 

外在主義に対する批判・反論・再反論などの紹介はまた今度。(メタ倫理学入門には言及が乏しい)