ワイワイブログ

畢竟独自の見解

「正は不正に譲歩する必要はない」の意義について

え〜〜〜みなさん,こんばんは。

お元気でしょうか。わたしは流行に乗り遅れないタイプなので,無事インフルに罹患していましたが今は元気にブログを書いております。ところで,「罹患」ですが,大学何回生かまで「らかん」と読んでいました。閑話休題

 

 

さて,正当防衛(刑法36条1項)について勉強した方ならこの命題を一度は見たことがあるだろう。

「正は不正に譲歩する必要はない」

この命題を指して「法確証原理」と呼ぶこともあるが,ワイはあまりこの呼称を正しいものだと考えていないため,以下では単に「当該命題」と呼称する。

 

当該命題は特に退避義務の否定であったり,緊急避難と違い正当防衛の成立要件に補充性が課せられていないことの実質的な理由となっているといえる。

このような正当防衛成立要件と当該命題の関係性からすると,当該命題は「正当防衛」制度の実質的な正当化根拠であり,正当防衛の成否について内在的な制約根拠となっていると考えるのが自然だろう。

当該命題を持ち出して正当防衛の成否や侵害退避義務を否定することは,結論の先取りにすぎないとされたり,一般的に否定するのは無理だという批判はS伯先生やY口先生,H爪先生などが行なっており,それ自体はまあまっとうな批判だろうなあと思う反面,個人的には議論の前提として以下の点が気になっている。

 

・「法は不法に譲歩する必要はない」=「正は不正に譲歩する必要はない」?

すなわち,当該命題を「法は不法に譲歩する必要はない」と意味内容が同じものとみなし,あまり両者の違いを意識していないと思われる点である。

仮に両者が一緒だとすれば,当然結論先取という批判は妥当するだろう。

このような取り扱いは,「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。」の「不正」の文言が,違法という意味で解釈されていることに起因するかもしれない。

しかし,ここでは正当防衛制度の正当化根拠としての命題の話をしているのであるから,「文言の「不正」が違法と解釈されている以上,「正は不正に譲歩する必要はない」も「法は不法に譲歩する必要はない」と解釈していいだろう」とすることは逆転現象もいいところであり,いわば風呂桶の水と一緒に赤子を流すようなものである(言いたいだけ)。

※実際には,当該命題のヒストリカルな淵源から,云々した結果らしい(ドイツのBernerがどうのこうの)。しかし,「正は不正に譲歩する必要はない」だろうが「法は不法に譲歩する必要はない」だろうが,現在の法実務や法秩序にとりうけいれがたい命題であれば,そのことのみを理由として排除すべき命題なのであるから,措く。

 

 

では,当該命題について以下のように考えたらどうなるだろう。

・「(道徳的)正は(道徳的)不正に譲歩する必要はない」(以下,「道徳命題」と呼称)

※道徳とは功利主義道徳のことであり,また,法規範と道徳規範は相互参照がありえつつも規範領域において別個に存在するということは前提とする

 

道徳的に正しい行為であれば,道徳的に不正な行為に対し譲歩する必要はなく,むしろ叩き潰すのが功利主義的であろうから(というより,もはや叩き潰さなければ道徳的に正しいとは言えない可能性すらある),道徳命題自体は道徳的に支持しうる命題と言えよう。それ以上に,仮にこの道徳命題を正当防衛の正当化根拠とするのであれば,侵害退避義務の否定にすら繋がりうる(?)(もっとも,命題は「譲歩すべきでない」ではなく「譲歩する必要はない」であるから譲歩してもよいのであり,この点言い過ぎ疑惑はあるので気にしないでほしい)。

また,前提より,道徳規範により与えられる道徳的評価は法的評価と独立に存在しうるのであるから,道徳命題を正当化根拠・内在的制約根拠とした解釈については結論先取の誹りは当たらない。

 

さらに,道徳命題が正当化根拠なのであれば,補充性が課せられていないことの説明も容易だろう。

 

また,いずれの行為が道徳的に正しいかは,当該行為のみならず,行為者の性質等も加味し判定されるのであるから,両者において問題となる被侵害法益も当然考慮の対象に入ってくる。

社会的法益や国家的法益のための正当防衛が認められるのか(「自己または他人の権利を防衛するため」の文言があることに由来する論点)については,次のように応答することができるだろう。

すなわち,生の功利主義はそのような社会的法益,国家的法益を保護するための「正当防衛類似行為」を肯定するかもしれない。しかし,我々が支持する間接功利主義は,統治者の最適動機群や最適規則体系に行為主体相関的な道徳判断を許すのであるから,より善い道徳状態の達成のために使用される法制度の在り方として,ただでさえ功利計算が死ぬほど苦手な我々に「社会的法益,国家的法益 」の保護を許容するように仕向けることはしないのではないか。

換言すると,「社会的法益,国家的法益」を被侵害法益として正当防衛の成立を認めるような法制度を策定すると,それにより間違った防衛活動(行為者は「社会的法益,国家的法益」を守っていると思っているが,客観的にはそれに反するような事態が生じている)が多発しかねず(聡明なブログ読者の諸君であれば,現在の社会を見渡せばそのような想定があながち間違ってはいないことはお分かりの通りだろう),道徳的により善い事態の達成が図られないことから,「自己または他人の権利」に限り正当防衛の成立を認める,とあえてすることがむしろより善い結果を導くと考えることができるのである。

 

さらに,緊急救助事例(他人の権利防衛の事態)もわりとすんなり説明がつくだろう(説明省略)。救助者と被侵害者の,侵害者に対する反撃行為の際の道徳的地位はあまり変わらないだろう。

 

 

ちょっと飽きてきたのでまた追記します。