ワイワイブログ

畢竟独自の見解

賭博・普遍性・主観確率

え〜〜〜みなさん,こんばんは。

近年世間を賑わせた,いわゆるはずれ馬券訴訟についてのメモです。
最判平成27.3.10(刑集69-2-434,以下平成27年最判),最判平成29.12.15(民集71-10-2235,以下平成29年最判),最判平成30.8.29(以下,平成30年最判)を前提とするので,よろしくお願い申し上げます。
また,付け焼き刃的知識で適当なので,間違いがあればご指摘よろしくお願いいたします。

 

*問題状況
ワイは租税法選択でもなければ社会人経験者でもないため,税法について全然知らないのですが,一連の判例の問題状況というか,訴訟の理論的動機というのは大要以下のようなものだと理解しています。
すなわち,まず,馬券を買い予想が的中すれば払い戻しがあるわけですが,その払い戻された収入が,一時所得にあたるのか,雑所得にあたるのかという問題があります。馬券を買う側としては,払い戻しの所得に対し,外れ馬券購入分を経費として控除したいわけですが,払い戻しが一時所得とされれば,認められる経費が狭いため外れ馬券購入分が課税対象額から控除されないことになり,不利になります(雑所得とされた場合,経費として控除される)。

 

 

雑所得該当性はバスケット条項であるため,一時所得に当たるかどうかの検討がまずもって必要となる。
所得税法34条1項によれば,一時所得とは「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得及び譲渡所得以外の所得のうち,営利を目的とする継続的行為から生じた所得以外の一時の所得で労務その他の役務または資産の譲渡の対価としての性質を有しないもの」をいう。
すなわち,あたり馬券の払い戻しが「営利を目的とする継続的行為から生じた所得」に該当するかどうかが問題の焦点となる。継続的かつ大量に馬券を購入し払い戻しも受けていたとしても,個別の払い戻しに着目すれば「一時の所得」であることは明らかなので,仮に払い戻しが「営利を目的とする継続的行為から生じた所得」であるとすれば,雑所得として取り扱われる。更に言えば,「一時の所得」該当性を個別のひとつひとつの払い戻しに着目してみるのであるから,「継続的行為」かはあまり問題ではなく,真に注目すべきは「営利を目的とする」行為から生じた所得かどうかであると思われる。

 

平成27年最判,平成29年最判は,払い戻しを雑所得と,平成30年最判は一時所得と扱った。

 

いずれの事案も,プロ馬券師のような人が,独自データないしプログラムを使用しレース結果を予想し,継続的かつ大量に馬券を購入していた。
他方,平成27年および平成29年最判(雑所得)と,平成30年最判(一時所得)を分けた有意な違いは,購入する馬券を選ぶ際,的中率の高低のみに着目していたか(平成30年最判),それとも実際の投下資本の回収率まで着目していたか(平成27年最判,平成29年最判)であり,また,実際の回収率としても,雑所得として扱われたほうは,回収率が100パーセントを超え(全体としてみた収支がプラス),他方一時所得として扱われたほうは100パーセントを下回っていた(赤字)。
高い的中率を目指すだけならば,高い回収率を目指すよりも簡単といえよう。高い回収率を目指すのであれば,高い的中率に加え,馬券の「買い方」まで工夫する必要がある。


この前提から即座に考えられるのは,「馬券の購入方法として,(少なくともギャンブル性が否定される程度に)高い回収率まで着目したスキームを構築しており,かつ,回収率が現に100パーセントを超える(黒字である)場合,そこからの払い戻しは雑所得に当たる」ということである。
先に述べた注目点からすれば,「馬券の購入方法として,(少なくともギャンブル性が否定される程度に)高い回収率まで着目したスキームを構築しており,かつ,回収率が現に100パーセントを超える(黒字である)場合,馬券購入は「営利を目的とする」ものである」といえそうである。
しかし,仮にこの命題が上記判例から導かれるとしても,この命題は規範的にはどうもおかしいように思われる。
すなわち,馬券について,購入方法が違うだけで「営利を目的」とするかどうかが変わるというのはいかにもおかしいし,購入後の結果論として回収率が100パーセントを超えたかどうかを要件解釈の要素としてみるのは,税法上の行為規範性を著しく減する。

 

回収率が100パーセントを超えたという事後的な事実は,あくまで,馬券の購入方法として高い回収率まで着目したスキームを構築していたことを推認させる間接事実として働いているに過ぎない,と考えることもできるかもしれないし,実際そのように考えるのが解釈論としては自然かもしれない。
そのように考えることで行為規範性の問題をいくらか逸らすことができるかもしれない。
しかし,前者のほうはどうだろうか。高い回収率まで見込んだ馬券購入スキームを構築したという事実から,営利を目的とする(≒ギャンブル性に欠ける,射幸性が否定される)という認定を,「裁判所が」認定することは果たして妥当なのだろうか。
このような事実認定の推論は,すなわち「ある方法を前提とすれば,競馬はギャンブルではない」ことを裁判所が客観的に認定するということと同義なのではないか。
仮にそうだとすれば,裁判所は様々な社会的事象についてギャンブル性の認定の線引きを迫られ,その説明に苦慮することとなろう(それは賭博の一般論として公的な見解となりうる!)。

 

このような想定しうる苦慮が生じるのは,裁判所のギャンブル性についての心証を,いわゆる客観確率により説明することに一因があるように思われる。
すなわち,頻度主義により定義された,世界の側で一意に定まっている確率を前提として説明をしてしまうと,競馬等について「制度として実はギャンブル性がない(場面がある)」と公的に認定してしまうことが問題として顕在化する。
他方,確率を個人の主観的な信念として定義した主観確率を前提とすれば,以下のような説明ができるのではないか。


つまり,裁判官の心証の説明として,ある馬券購入主体について,その者が実際に払い戻された額が回収率100%以上であるという事実をベイズ改訂に用いられる情報と解釈すれば,「その購入主体による購入行為が,営利を目的とする(≒ギャンブル性に欠ける,射幸性が否定される)と言える程度に高い確率で的中するといえる」という裁判官の事後確率に基づく認定をしたとしても,制度一般に対する普遍性を伴った判示にはならず,あくまで馬券を購入した主体相関的に判断したことにとどまり,いいカンジになるのではないか。
知らんけど。

 

 

 

ほろ酔いで適当に書いているので,適宜追記する気がします。