ワイワイブログ

畢竟独自の見解

最近読んだ本紹介②

moominpapa.hateblo.jp

 

え〜〜〜〜〜こんばんは。

前回に引き続き、最近読んだ本の紹介です。人の感想を読んだり聞いたりするのが好きなので、みんなも同じように読んだ本紹介をしてほしい。

 

なんか話題になってた(ような気がする)ので、読んでみた。

 

人のエッセーとか読むの好きなんでヤンスよね〜って思っていたんだけれど、よくよく考えてみると、当たり前のことだけど、エッセーの書き手が誰でもいいわけではなく、「ワイが好感を持っている人のエッセー」を読むのが好きなんだよね。別にどうでも良い人が普段考えていることとか、嫌いな人の日常とか実際どうでもいいわけだし。

そういうわけでワイは普段から友人らにブログを書けと強要しているのだし、川上未映子とか先崎学九段のエッセーを楽しく読んでいるわけです。

 

ということで、「ワイはこの筆者に好感を持てるかな?」的スタンスを持って読み進めたのでした。こういうスタンスで読むことはあまりよくないことであるようにも感じるけど、許してほしい。

 

読んでみると結構むずかしくって、筆者の聡明さとか、真摯さは明らかにワイが好感を持つ点なんだけれど、悩みの方向性みたいなところとかは正直あまり共感できる部分が多いとは感じなかったし、内的には悩みを抱きつつにせよ、外的には社会とのやりとりを意外と(!)そつなくこなしているように思えて仕方なかった(それが悪いというわけではないが)。ピアスすげー開けたり酒すげー飲んでたり、子供が苦手なところとか、明言されてないけどおそらくエルレガーデンが好きなところとかは「いいね・・・」って思いましたが・・・。

 

人の悩みには二種類あり、共感できる悩みと共感できない悩みがある。自分は楽観的なところがあるので人の悩みについてあまり共感できないことが多いように思っていて、そのことをダイレクトに表明するところがあるのは社会生活上あまりいいことではないなあという自覚を持っていつつ、直せないでもいる。ゼットゼットブログ的にいえば、そういうところにアイデンティティを見出しているのかもしれない。

本書についても、そういうワイの性質がでてしまったのか、「悩んでんなあ」以上に共感を掻き立てられる悩みがそんなに多くなく、そこが個人的に難しいところだったのだと思う。正直フランス滞在記として読んでしまっていた。自己弁護になってしまうが、人の悩みに対して広範に共感できる人と、共感できるように演じている人がいて、後者の数は意外と多いんじゃないかと訝しんでいるところがあるが、実際どう?

 

ところで、本書の帯には、西加奈子氏が「自分を愛することを認めてくれる人はたくさんいるけれど、自分を愛さないことも認めてくれる人は稀有で、金原ひとみさんはその一人だと思う。」という言を寄せており、ツイッターで検索してみると(この帯の言葉につられたのかもしれないが)同様の感想を述べている人も散見されるんですが、筆者が自分を愛していないのではないかなという点は読んで了解しうるとしても、他人がそうであることを筆者が認めてくれるかどうかは正直読み取れなかったので、どの部分からそういえるのかだれか教えてほしいです。

 

亀石先生の『刑事弁護人』を読んで以来の刑事弁護についての文庫本。

一般的に、刑事弁護についてのトピックは、無罪をとる大変さとか、刑事司法の絶望さに関することになりがちだと思う。

もちろんこの本もそういうトピックを扱ってはいるわけだが、それよりむしろ強調されるのは、今村弁護士の生き様というか、業、というべき部分だと思う。

 

14件の無罪をとりながらも、マスコミの前では冤罪事件が専門であると言ってしまうと食べていけなくなる、と今村弁護士が恐れているシーンはあまりにも悲壮的だ。一般の人からすると刑事弁護はまさに「弁護士」のイメージそのものの仕事であるし、ある種の華やかさとともに想起されてしまうものだと思う(多分)。でも、実際のところとてつもなく地味で、報酬も完全に割に合わないし、否認事件、それも再審までやるような事件なんて一握りの事件をのぞいて弁護人のボランティアに近いと思う(個人的にも、5、6人尋問した否認事件の報酬が10数万だった時はマジでヒエ〜と思ったことがある)。

 

冤罪弁護は自分の生きることそのものになってしまっていると今村弁護士は言う。亀石先生の『刑事弁護人』では刑事弁護のやりがいというか、アツい部分をみることができるが、一方で、刑事弁護の「リアルな」部分をみることができる本書こそ、一般に広く読まれてほしい。

最悪、以下の文章は読んでほしいので紹介します。

 その後、A夫妻はどうなったのか。

 今村が重い口を開いた。

「離婚されましたね…。奥さんは夫を救うため、支援活動をすることで、人との繋がりが増えていった。他方で、Aさんはずっと拘置所にいて、面会に行くのは羽鳥先生ぐらいですから、非常に孤独な生活を強いられて苦しんできた。奥さんとAさんとの間には、裁判中に溝ができてしまった」

 妻の身を案じて、嘘の自白をした夫。

 その夫婦関係は、冤罪を晴らす過程で壊れていった。

 今村は、冤罪被害者の心情を慮った。

「当事者に取ってみれば、『元々無実なんだから、無罪で当たり前じゃないか。』と。だから、『自分にはマイナスしか残っていない』と思うでしょう。無罪と言っても、当然のことが起きただけで、その間に苦しめられた補償も十分ないし、周りの人が喜んでいるのが理解できない。『なんで喜ぶんですか?何もめでたくない。私はただ怒っているんですよ』と。それが素直な反応だし、無実者の苦しみじゃないかと思います。その人にとっては、『検察官、裁判官、警察官、さらには弁護士、こう言う人たちがトータルで俺に何をやったか?ただ、俺を苦しめたな。』と」

 全身全霊を注がなければ、冤を雪ぐことはできない。

 救えたとしても、元に戻るわけではなく、深く感謝されるとも限らない。

 冤罪弁護とはそういうもの、と今村は静かに受け止めていた。

※本書113頁〜114頁より引用 

 

〜FIN〜