ワイワイブログ

畢竟独自の見解

瀧川裕英『国家の哲学』ランニングコメンタリー;第1章

 

※明示的な引用とは別に、カギカッコ(「」)による引用もします。

基本的にワイが引っかかったところを紹介していくカンジなので、多分にないものねだりで「そんなの論じる紙幅なんてあらへんわ!」的なコメントになると思います。そこんところご了承ください。

 

 

第1章”個人は国家に対して義務を負うか?ー政治的責務の正当化根拠を問うー”

 

 

・まずは問題の設定。

私が本書で試みるのは、国家の存在理由を再検討し、国家の意義を解明することである。(1頁)

グローバル化の中で、振る舞いが恣意的に見える国家の存在理由を検討するようだ。

 

・2p。

ストレンジによれば、グローバル化によって、国家は退場しつつあるとしても、消滅しつつあるわけではない。言い換えれば、国家の権威は衰退しつつあるが、市場が提供し得ない基本的事柄に関してはそうではない。例えば、安全保障、通貨、法システム、インフラ整備に関しては、依然として国家は重要な意義を持つ。

これはどうなんでしょ。ストレンジを引いているからそちらに当たればいいのだろうけど、心の中のアナキャピが反応してしまう。まあ本書で論じることでもないか(知らんけど)。

 

・4p〜5p。

 本書で私は、政治的責務をさしあたり、「個人が特定の国家に対して負う責務」として捉えておく。法を守る義務である遵法義務は、政治的責務の重要な一部として、まずは位置づけておく。

一応の定義づけ。もっとも、遵法義務の存否もそもそも問題ではあるし(ワイは認めないマン)、法の存在と国家の存在の関係性もそもそも問題だと思うので、なんか一応留保が欲しかったな〜〜(無い物ねだり)。

 

・5p。政治的責務は道徳的義務とは違うものとされる。ホ〜。道徳的義務との対比軸は、①「第一に主体の面で、すべての道徳的人格ではなく、特定の政治的人間が負う義務」②「第二に対象の面で、普遍的な義務ではなく個別的な義務」(原文では「普遍的」「個別的」に強調点)。

①について、「人格」を使っているところ、これは「人間」とは異なる意味で使われている(後の文章で「人間は人格である限り、道徳共同体の一員となる。」とある)。

そもそも「人格」の存否という問題があることは注意。また、「道徳的人格」や「政治的人間」という際の「道徳的」「政治的」という語の使い方になんか違和感を感じる。ここでは道徳に適った振る舞いをするようなことを「道徳的」などと言っているわけではないよね…?

 

あと、②については道徳的個別主義(道徳的特殊主義)の存在も気になる。

ともあれ、文章から瀧川先生の道徳哲学上の立場を推認するしかないのでちょっと大変。ある程度立場を先に示して欲しいなあ。

 

 

・7p。義務と責務の区別。これは大事ですね。

あれ、てか5pの第一の対立軸は「義務」と「責務」の区別にすでに解消されるくね?(特定の)「相手方」という義務と責務の差異。う〜んわからん。

 

 

・7p。

 以上のように、政治的責務と道徳的義務は区別される。しかしながら、政治的責務は道徳的である。(原文は「政治的責務は道徳的である」に強調点)この点は誤解を生むかもしれないため、十分注意する必要がある。これが意味するのは、政治的責務は道徳的理由によって正当化されたり否定されたりする、ということである。

 逆にいえば、政治的責務は法的義務ではない。より正確に言えば、政治的責務は法的義務であるとは限らない。ある政治的責務を法的義務とするような法実践が存在する場合に、政治的責務は法的義務となる。

 ここでの「政治的責務は道徳的」という語法はわかりづらいね。ヘアを引いているので、ヘアの語法なのかな。

ところで、「逆にいえば」←逆にいえば!!!?!? つまり、瀧川先生は法的義務は道徳的理由によって正当化されたり否定されたりしない、と考えているということなのかな。

 

 

・8p。

同様に、法に従う法的な義務は、法というゲームに参加する人にとっての義務でしかない。では、法というゲームに参加することは道徳的義務か。逆に、法というゲームの部外者であることはなぜ道徳的に許されないのか。これが、政治的責務の問いである。

最後の、「これが、政治的責務の問いである。」は、本書のこれまでの書き振りからすると、限定的に読むべきではないよね。多分。

 

 

・8p。1.4.1 個別性の要請。

「...この場合に、自国Xの戦争に抵抗し他国Yを支援する義務があるといえるかもしれないが、それは政治的責務ではない。政治的責務とは、あくまで自国に対する義務である。」←自国/他国の判定はどのように行われるんだろうか?国籍法によって行われるんじゃないかと思うが、そうであれば政治的責務は法的義務から派生する形でしか存在できないのでは?って思うけど。。。あと、「支援する義務」は「義務」であってるのかな。ここは「責務」ではないんだね。同様に、「政治的責務とは、あくまで自国に対する義務である。」もそう。わからなくなってきた

定義上、義務と責務は排他的に使用されるべきように思われるのだけど、違うのかな。読んでる感じ違うっぽい。あまりここでは強く区別しないのかな。むしろ、「義務」「責務」の前につく「道徳的」「政治的」の含意による区別が意識されているっぽい。ならわざわざ「義務」と「責務」の違いを強調する必要とか、そもそも区別する理由がよくわからんなあ。

政治的義務と道徳的義務があり、政治性と道徳性はそれぞれ異なる。政治的義務の道徳的評価は可能であり、逆もまた然り。みたいな感じではダメ?

 

 

 ・9p。「他者に危害を加えない義務は、むしろ自由を促進する面を持つ。」わかるようでイマイチわからんけど、まあいいか。

 

 

・9p。「このように、自由や平等との衝突の可能性を孕んだ政治的責務が体現する価値は、友愛である。」

自由、平等、友愛といったそれぞれの価値があるという前提っぽい。そもそもそれはそれ自体で価値足りうるのか、〜的がつかない裸の「価値」とは何かという疑問はあるね。

 

 

・9p。政治的責務は一応の義務。了解。

 

 

・11p。1.5.2多元的忠誠

「忠誠の複数性」を前提にした愛国主義的忠誠の可能性はあるか。これはおもしろい問い。

 

 

・12p。 1.5.3一応の義務と熟議プロセス

「道徳的な熟議プロセスにおいて、ある行為を要求する道徳的理由が認定されると、当該行為は一応の義務となる。」

これを見るに、瀧川先生は道徳的義務は一応の義務という前提かな。ヘアとかは違うんだっけ。

と思ったら、ここからの「一応の義務」の使い方は、進行中の熟議プロセス内で認定されるものとしての義務のようだ。このプロセス的理解は知らなかった。勉強になります。

 

 

・遵法義務と遵法意識は無関係。はい。

 

まとめ

グローバル化という問題圏の存在を動機として、プロセス的に理解された一応の義務としての政治的責務(「政治的義務」ではダメなのかしら)の正当化根拠を検討するのが本書の方針、ということでいいかな。