ワイワイブログ

畢竟独自の見解

最近読んだ本紹介②

moominpapa.hateblo.jp

 

え〜〜〜〜〜こんばんは。

前回に引き続き、最近読んだ本の紹介です。人の感想を読んだり聞いたりするのが好きなので、みんなも同じように読んだ本紹介をしてほしい。

 

なんか話題になってた(ような気がする)ので、読んでみた。

 

人のエッセーとか読むの好きなんでヤンスよね〜って思っていたんだけれど、よくよく考えてみると、当たり前のことだけど、エッセーの書き手が誰でもいいわけではなく、「ワイが好感を持っている人のエッセー」を読むのが好きなんだよね。別にどうでも良い人が普段考えていることとか、嫌いな人の日常とか実際どうでもいいわけだし。

そういうわけでワイは普段から友人らにブログを書けと強要しているのだし、川上未映子とか先崎学九段のエッセーを楽しく読んでいるわけです。

 

ということで、「ワイはこの筆者に好感を持てるかな?」的スタンスを持って読み進めたのでした。こういうスタンスで読むことはあまりよくないことであるようにも感じるけど、許してほしい。

 

読んでみると結構むずかしくって、筆者の聡明さとか、真摯さは明らかにワイが好感を持つ点なんだけれど、悩みの方向性みたいなところとかは正直あまり共感できる部分が多いとは感じなかったし、内的には悩みを抱きつつにせよ、外的には社会とのやりとりを意外と(!)そつなくこなしているように思えて仕方なかった(それが悪いというわけではないが)。ピアスすげー開けたり酒すげー飲んでたり、子供が苦手なところとか、明言されてないけどおそらくエルレガーデンが好きなところとかは「いいね・・・」って思いましたが・・・。

 

人の悩みには二種類あり、共感できる悩みと共感できない悩みがある。自分は楽観的なところがあるので人の悩みについてあまり共感できないことが多いように思っていて、そのことをダイレクトに表明するところがあるのは社会生活上あまりいいことではないなあという自覚を持っていつつ、直せないでもいる。ゼットゼットブログ的にいえば、そういうところにアイデンティティを見出しているのかもしれない。

本書についても、そういうワイの性質がでてしまったのか、「悩んでんなあ」以上に共感を掻き立てられる悩みがそんなに多くなく、そこが個人的に難しいところだったのだと思う。正直フランス滞在記として読んでしまっていた。自己弁護になってしまうが、人の悩みに対して広範に共感できる人と、共感できるように演じている人がいて、後者の数は意外と多いんじゃないかと訝しんでいるところがあるが、実際どう?

 

ところで、本書の帯には、西加奈子氏が「自分を愛することを認めてくれる人はたくさんいるけれど、自分を愛さないことも認めてくれる人は稀有で、金原ひとみさんはその一人だと思う。」という言を寄せており、ツイッターで検索してみると(この帯の言葉につられたのかもしれないが)同様の感想を述べている人も散見されるんですが、筆者が自分を愛していないのではないかなという点は読んで了解しうるとしても、他人がそうであることを筆者が認めてくれるかどうかは正直読み取れなかったので、どの部分からそういえるのかだれか教えてほしいです。

 

亀石先生の『刑事弁護人』を読んで以来の刑事弁護についての文庫本。

一般的に、刑事弁護についてのトピックは、無罪をとる大変さとか、刑事司法の絶望さに関することになりがちだと思う。

もちろんこの本もそういうトピックを扱ってはいるわけだが、それよりむしろ強調されるのは、今村弁護士の生き様というか、業、というべき部分だと思う。

 

14件の無罪をとりながらも、マスコミの前では冤罪事件が専門であると言ってしまうと食べていけなくなる、と今村弁護士が恐れているシーンはあまりにも悲壮的だ。一般の人からすると刑事弁護はまさに「弁護士」のイメージそのものの仕事であるし、ある種の華やかさとともに想起されてしまうものだと思う(多分)。でも、実際のところとてつもなく地味で、報酬も完全に割に合わないし、否認事件、それも再審までやるような事件なんて一握りの事件をのぞいて弁護人のボランティアに近いと思う(個人的にも、5、6人尋問した否認事件の報酬が10数万だった時はマジでヒエ〜と思ったことがある)。

 

冤罪弁護は自分の生きることそのものになってしまっていると今村弁護士は言う。亀石先生の『刑事弁護人』では刑事弁護のやりがいというか、アツい部分をみることができるが、一方で、刑事弁護の「リアルな」部分をみることができる本書こそ、一般に広く読まれてほしい。

最悪、以下の文章は読んでほしいので紹介します。

 その後、A夫妻はどうなったのか。

 今村が重い口を開いた。

「離婚されましたね…。奥さんは夫を救うため、支援活動をすることで、人との繋がりが増えていった。他方で、Aさんはずっと拘置所にいて、面会に行くのは羽鳥先生ぐらいですから、非常に孤独な生活を強いられて苦しんできた。奥さんとAさんとの間には、裁判中に溝ができてしまった」

 妻の身を案じて、嘘の自白をした夫。

 その夫婦関係は、冤罪を晴らす過程で壊れていった。

 今村は、冤罪被害者の心情を慮った。

「当事者に取ってみれば、『元々無実なんだから、無罪で当たり前じゃないか。』と。だから、『自分にはマイナスしか残っていない』と思うでしょう。無罪と言っても、当然のことが起きただけで、その間に苦しめられた補償も十分ないし、周りの人が喜んでいるのが理解できない。『なんで喜ぶんですか?何もめでたくない。私はただ怒っているんですよ』と。それが素直な反応だし、無実者の苦しみじゃないかと思います。その人にとっては、『検察官、裁判官、警察官、さらには弁護士、こう言う人たちがトータルで俺に何をやったか?ただ、俺を苦しめたな。』と」

 全身全霊を注がなければ、冤を雪ぐことはできない。

 救えたとしても、元に戻るわけではなく、深く感謝されるとも限らない。

 冤罪弁護とはそういうもの、と今村は静かに受け止めていた。

※本書113頁〜114頁より引用 

 

〜FIN〜

最近読んだ本紹介

え〜〜〜〜〜〜こんばんは。

当ブログはこれまでわけのわからないテーマの内容しか書いておらず,普通の良い子のみんなを完全に置いてけぼりにしていたことは言うまでもありません。

 

実のところわたくしこのような現状を深く憂慮しておりまして(なぜ?),ちょっと雰囲気を変えて読んだ本紹介なぞをしようかなとそういうことであります。

これをルーティーンにすれば積ん読もいっぱい消化できるしね。 

 

僕は基本的にこれまでの人生でお金とか税金とかそういうのに全然興味がなくって,まあ大丈夫でしょ,みんな知ってるふうだし,いざとなればちょちょいのちょいでしょ,というか働き始めたらみんな必要に迫られて知ることになるのよ,そういうものなのよ,とか思ってて。修習がはじまったとたんみんなが税金がどうだ,雑所得がどうとか領収書がどうとか言い始めたのをひとり苦々しく思っていたのでした。まあこの辺の僕の態度は知っている人は知っているだろうけれど・・・

気づけば働き始めてて,ぼんやりしてたらあっというまに一年たっていました。確定申告?とかいう謎イベントも何が何だかわからないけど雰囲気でこなしはしましたが,マジのガチでよくわかってないし,税金ってなに?お金って?積立ニーサ?イデコ??????インデックス投資??????????

大学のころの甘い目論見がはずれ,不安で胸が張り裂けそうになりつつ助けを求め博多駅前の紀伊国屋で購入したのがこの本。

 こう言う類の本にありがちなのが,誰でもわかる!とか基礎から!とかいいながらも「は?サラッと当たり前に使ってるけどそれの意味がわからないんだが?なめるなよ」ってなることですよね。初心者の気持ちを忘れてるくせに初心者向けの本を書く奴は本当にふざけてると思います。

その点この本はまじで最高で,マジのガチで基礎から教えてくれて,読みながら「ふわ〜助かった〜〜〜。あ,そうそうこれも知らないまま生きてきたなあ〜ハァ〜助かった助かった」となり,助かりすぎてチャゲアンドタスカになりました(?)。

 ただ,外で読むのはちょっと恥ずかしいのであり(失礼),普段買った本にはカバーをつけないのですが,この本に関しては「カバーいりますか?」「あ,お願いします(照)」っつってバスの中とかでよく読んでました。

まあこれを読んでも積立ニーサとかインデックス投資とかはわからなかったわけですが(範囲外),基礎の基礎を知ることができてとても嬉しい気持ちです。長年心の片隅に抱えていた不安が取り除かれたようです。

仮に僕のような人がいれば,絶対におすすめできる本です。こっそり買って読みましょう。

 

 

 川上未映子のエッセーとかは基本的にすでにだいたい全部購入していて家にはあるのですが積ん読になっているのが多いです。

最近は時間もできたのでパリッと読んでみたのがこれ。やっぱりいいですね。心が落ち着きます。

ロースクールの時は同級生の強烈な関西弁にアテられた結果,関西弁混じりの川上未映子のエッセーを読むと脳内で同級生の発言に置き換えられてしまうという重篤な症状に悩まされたため,読むことを諦めてしまったという苦い過去もあります。

久々に読んでみると,このエッセーは関西弁が強調されていなかったので,症状のフラッシュバックも起きませんでした。

連載のテーマ上,食事に関するエッセーが割と多めだったのだけど,個人的には川上未映子はもう少しだけ重めのテーマについて読みたい。「わたしであり、あなたでなくちゃ」なぞは本当に勇気付けられます。

「なにとも比較できないなにか。誰かにとやかく言われようのないなにか。学校や職場以外の場所にこそ、仕事や人間関係以外のものにこそ、自分にとって素晴らしいものがあるという自信をもつこと。もしいまそれがなければ、いろんな場所やものに触れて、そう思えるものを見つけること。いまの自分の現実だけが現実ではないと知ること。世界に角度をつけること。本でも映画でも、信頼する誰かと昔に交わした言葉でもなんでもいい。それは自分の殻に閉じこもってまわりを見ないようにすることとはまったく違って、なにかひとつ、誰にもわかってもらえない自分だけの大事なものを見つけることが、明日また、学校や職場で頑張るためのちからになると思うのだ。」

この文章,ちょっと違うけど,僕の中でのオールタイムベストの映画であるthe secret life of walter mittyで引用されるフレーズを想起する。

To see the world,
Things dangerous to come to,
To see behind walls,
To draw closer,
To find each other and to feel.
That is the purpose of life.

 あとは,「一九九〇年のジョバンニ」なんかも個人的にはめちゃくちゃ好きなんだけど,これは安心毛布を買って読んでください。読んだ人にだけどこをどう良いと感じたのか教えます。

 

 近年個人的には小説とかよりノンフィクションルポとか紀行記を読むほうが好きで,最近では若林の『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を読んでキューバ行きて〜って思ったりしていました。(ただし,時折はいってくる新自由主義がどう〜とかいう文章はガチでやめてほしいと思った)

『ルポ川崎』なんかもその地域のことを知りたくって読みました。やっぱりこういうアングラな話は沖縄と比較しながら読んじゃいますね。

「地元」の上下関係からの離脱の話であったり,多文化が入り混じっていてレイシャルな問題がすぐそばにあることなんかはホントそうなんだよね,川崎ではこういう形で顕れてるんだ,って感じ。

連載していた都合もあって川崎出身のBAD HOPメンバーの生い立ちからリアルに迫る文章が多かったですね。これを読むまで恥ずかしながらBAD HOPについてはあまり知らなくって,ユーチューブでVICEのやつを見たことがあったくらいでしたが,これ読んだ後にはiTunesでアルバムダウンロードしました。割と良いのでみんなも聴きましょう。(ルポ川崎も読みましょう)

 

ひとまずこの辺で。

小川亮『裁判所法四九条のいう「品位を辱める行状」と裁判官による裁判に関する表現行為〔最高裁平成30.10.17決定〕』の(簡単な)ご紹介

え〜〜〜〜〜ご無沙汰しております(ツイッターはしてる)。

 

岡口Jの弾劾裁判が開かれることになったようで,界隈がざわついております。

www.asahi.com


ワイはそこまで興味しんしんで一連の流れを追ってきていたわけではないんだけれども,まあ界隈の意見はツイッター見てたら目に入ってくるし,キムソーセンセとかキノピーセンセの意見書は一応読んどくか,っていうような感じでした。

読んだ意見書は(被申立人から提出されるものであるから当然ながら)戒告処分には反対,違憲であるという内容で,管見の限りでは界隈でもそれに同調する人が多いんでないかなと思うんだけど,個人的にはどうも腑に落ちておらず,とはいえ自分の考えをちゃんと整理するだけの時間をとるわけでもなく,なんとなく大勢の意見にはノリ切れないから黙っていよう,というスタンスでありました。

 

もっとこうワイの違和感を明確化してくれるような書き物はないものか・・・とは感じていて,標題の論文はおそらくそうなのではないかなという事前情報はかなり前にキャッチしていたところではあったのですが,いかんせん載っている媒体が自治研究なもので,これがなんともアクセスしづらい。まあいいやと思って数年ほっておいていたのですが,今回のニュースがあったことで,その存在を思い出し,やっとのこと読んでみたのでした(小川先生ありがとうございました。)。大変勉強になりました。小川先生って法哲学者じゃなかったんですね(たぶん)。

ci.nii.ac.jp

 

一読した上でワイが「いいな」と思ったところは,以下の点です(小並)。議論の流れ的なところはめんどくさいので紹介しませんが・・・

・「同条にいう『品位を辱める行状』とは、職務上の行為であると、純然たる私的行為であるとを問わず、およそ裁判官に対する国民の信頼を損ね、又は裁判の公正を疑わせるような言動をいうもの…」という判示における「裁判官に対する国民の信頼を損ね、又は裁判の公正を疑わせるような言動をいう」の解釈として独立説は妥当ではなく,「裁判の公正を疑わせる」かどうかが要件該当性判断にとって決定的であるとの指摘

・問題とされるツイートに対する「一般の閲覧者の普通の注意と閲覧の仕方」がどのようなものであるかについて,「裁判所の認定を批判するためには,裁判所が従うべき規範からすればこのような認定を行うべきではない,という主張を行う必要がある(例えば,適切な方法による社会調査に依ることが考えられる)。」との(ある種当たり前の)指摘

 

このほか,懲戒事由該当性判断と懲戒処分相当性判断は切り分けられており,取り上げられるツイートの範囲も当然ながら異なるという(これもまたある種当たり前の)指摘も,判例評釈としての明晰性を実感するものです。

 

結局のところ,裁判所法49条それ自体についての違憲性を問題とせずに,本件戒告処分には反対である,違憲であるというような主張をすることがワイは気に食わなかったんだなあという従来からの私見に落ち着いたのでした。

 

ともあれ,本評釈は,意識的に読もうとしないとなかなか読むことはないのではないかなと思いますが,取り上げている裁判について肯定的な立場ということもありますし,界隈のみなさまには広く読まれてしかるべき論文であると思料するところです。

 

なお,本評釈が取り上げている裁判については肯定派ですが,それと今回の弾劾裁判の是非についてはまた別論であることは言わずもがなです。上記朝日新聞の記事にありますが,本評釈の対象となっている裁判で問題となっているツイート行為は,弾劾裁判の罷免事由該当性判断の対象ではないはずですしね。

 

〜完〜

 

 

 

 

 

ゼットゼットブログ最高ブログ

え~~~~みなさん,ごきげんよう

今日はワイワイブログの弟ブログである,ゼットゼットブログの中でワイが特に好きな過去エントリを紹介しようと思う。(コンテンツへのフリーライド)

 

ワイは知ってる人が書いた文章を読むのがとても好きで,この人の文章を読みたいなあと思った人にはブログを書くように強要するのが半ば趣味のようなところがある。

結果,ローでは3人ブログをはじめさせることに成功した。

彼ら彼女らが書いたブログは最速で全て読んでいる自信があるし,なんなら感想を直接伝えている。これによりワイの効用は高まっているのは間違いないのだが,勧めた身としては書いている方はどうなのだろうと心配にもなる。

ichijikaidekaeru.hateblo.jp

「今、高校生の僕に「結局現代文書いてる人は何をしたいの」と聞かれたらこう答える気がする。「まあ言ったら好き勝手ブログ書いてるみたいなもんでしょ、お前ブログ書いたことある?楽しいよ。」」

 

なので,こう書かれてしまうとワイとしてはとても嬉しい気持ちになるし,その旨彼には伝えた。

ちなみに,同じくワイの勧めによりはじめた↓

gymgayoinogm.hateblo.jp

「ブログを書くというのは人生初めての経験です。今は恥ずかしくもあり、わくわくするような気持ちで書いてます。」

これも嬉しい。なんとなく孫をみるおじいちゃんみたいなあたたかな気持ちになる

 

上記エントリでも触れているが,ゼットゼットブログにはアイデンティティについて言及する記事が結構ある。

ichijikaidekaeru.hateblo.jp

ichijikaidekaeru.hateblo.jp

 

一貫したアイデンティティへのあこがれがある,というのはいかにもふつうという感触だけれど,彼のブログではそれだけではない,言語化しづらい感情が垣間見えるところが良い。ああ,確かにそういう感情ってあるよな,と気づく快楽を与えてくれる。

 

ichijikaidekaeru.hateblo.jp

 

これは直接的にはアイデンティティについて言及していないが,主題は似たようなところがある。

「フォローしているものが終わる経験を健全に重ねながら、みんな時間の流れを感じて生きていくんだろう。

 僕にはいまだに浪人時代の止まった時間感覚が抜けないときがあるんだよ。」

ワイのようにのほほんと生きているような人間にはどうひっくりかえってもこういう文章は書けない。更に言うと,このフレーズを文章の最後にもってくるというのもまた優れた言語感覚を感じる。

 

さっき紹介した阪急そばの記事,倒置法でたたみかける文章があるが,これは声に出して読みたい日本語であり最高である旨面と向かって激賞したことがあるので紹介したい。

「思わずくぐってしまった。暖簾を。暖簾ってあったっけ阪急そばに。

普通にきざみそば食べた。

しかも大盛を

阪急そばのおばちゃんはちょっと寂しそうではあった。しらんけど。」

リズム感がある。この部分だけ筆者の思考の流れをトレースしているような気持ちよさもある。こういうのも書けるようで書けないよね。

 

ichijikaidekaeru.hateblo.jp

これも非常に優れたエントリで,なんなら一番好きかもしれない。

「先日、ひとり食堂でお盆を抱えながら小鉢を選んでいて、うわあ食堂のサラダ、年々量減ってきてるなぁと思った時、ああこの一年は無駄だと感じました。」

この一文は本当に優れていると思っていて,ワイはこのフレーズを読むときいつも,小沢健二の歌詞について語るタモリのエピソードを思い出す。

matome.naver.jp

タモリ: でもね、よく考えられた作品だよね。あのね、まぁいろいろ優れてるんだけども、俺が一番驚いたのは鹿児島で車でできた作品で『道を行くと、向こうに海が見えて、きれいな風景がある』。そこまでは普通の人は書くんだけれども。それが『永遠に続くと思う』というところがね,それ凄いよ。凄いことなんだよ、あれ。

小沢: ホンっト、ありがとうございます。良かったなぁ、ちゃんと…。ボクは何かね、聴いてて、何ていうのかな……。たとえば、今お昼休みで、『笑っていいとも』で“ウキウキウォッチングしてる”ところと、何ていうか、“人生の秘密”とは、“生命の神秘”とか、“永遠”とか、そういうのがピュッとつながるような曲が書きたいんですよね。それで、だから…。んー。

 

そのあとにある文章も好き

「試験が近くても全然集中していませんでした。集中したくてミニマリストのことを調べたのか、ミニマリストが興味深すぎて集中できなかったのかは覚えていませんが、皆一生懸命勉強している自習室で、僕は集中していませんでした。 」

これもリズムかな。「集中」という語の畳みかけ方がうまい。

 

 

やろうと思えばもっとかけるがこの辺にしておこう。きりがない。

バランスをとるため一応罵倒でもしておくか。

ジーンズと三国志の記事は一定の層に需要はあるかもしれんがワイは楽しんでないぞ。(特に三国志

 

~FIN~

 

 

刑罰目的論は最高ですか?

 

現在刑法の教科書に載っている刑罰理論を全く理解することができない。

学部一年生の頃,刑法を初めて勉強した時から現在に至るまでずっと変わらずそう感じている。現在の一般的な整理を徹底的にdisってやろうと思い,さっき色々書きかけたのだが,あまりの議論の混迷ぶりに頭に血が登ってしまい,消した。とにかく既存の刑罰目的論は全て死んでほしい。

刑罰の目的論ならわかるが,それとは別に刑罰の「本質論」という形で応報だとか目的刑だとかを捏ねくり回すのは本当に意味不明。「相対的応報刑論」とかも完全に意味不明。何が相対的なんだ?予防目的で刑罰を課すが,機能的には応報も達成されるという理解をするしかないと思う。

 

応報刑論と予防論のコンビネーションを許す,みたいな考え方が本当にわからない。

行為に見合った応報としては15年の懲役刑が妥当だが,当該行為者への特別予防としては10年で足りる(一般予防を考えるとさらに低く8年程度で足りる)と考えられるようなパターンを想定しよう。この時,コンビネーションを許すような刑罰目的論は何一つ量刑選択に貢献しないだろう。

 

小林憲太郎『刑法総論の理論と実務』の記述を紹介しよう。

「・・・わが国の刑罰法規は法定刑の幅が非常に広く,ある意味で,議会が裁判所に対して「あなたのところで適切な刑を決めて下さい」と委任している側面が否定できない,ということだ。ベテランの実務法曹は事実関係を見ただけで,瞬時に「刑はこのくらいかな」と的確に判断できる(むろん,実際にはきちんと量刑データベースも参照するが)。それは,そういった大役を議会から担わされているため,日々,厳しいトレーニングを積んでいるからなんだよね。・・・議会に代わって国民に対し,一定の体系的かつ説得力のある理論に基づいて,法曹がその量刑判断を正当化しなければならない,という意味でも「大役」なんだよ。こうして,量刑の判断が,実務家にとって刑罰目的論を身につけなければならない第2の局面となるわけだ。」(2頁)

何を言っているのかわからない。少なくとも日本のことではないと思う。

また,同書は,最判平成26年7月24日(刑集68・6・925)を紹介している。

「我が国の刑法は,一つの構成要件の中に種々の犯罪類型が含まれることを前提に幅広い法定刑を定めている。その上で,裁判においては,行為責任の原則を基礎としつつ,当該犯罪行為にふさわしいと考えられる刑が言い渡されることとなる が,裁判例が集積されることによって,犯罪類型ごとに一定の量刑傾向が示される こととなる。そうした先例の集積それ自体は直ちに法規範性を帯びるものではない が,量刑を決定するに当たって,その目安とされるという意義をもっている。量刑が裁判の判断として是認されるためには,量刑要素が客観的に適切に評価され,結果が公平性を損なわないものであることが求められるが,これまでの量刑傾向を視野に入れて判断がされることは,当該量刑判断のプロセスが適切なものであったことを担保する重要な要素になると考えられるからである。 この点は,裁判員裁判においても等しく妥当するところである。裁判員制度は, 刑事裁判に国民の視点を入れるために導入された。したがって,量刑に関しても, 裁判員裁判導入前の先例の集積結果に相応の変容を与えることがあり得ることは当然に想定されていたということができる。その意味では,裁判員裁判において,それが導入される前の量刑傾向を厳密に調査・分析することは求められていないし, ましてや,これに従うことまで求められているわけではない。しかし,裁判員裁判 といえども,他の裁判の結果との公平性が保持された適正なものでなければならないことはいうまでもなく,評議に当たっては,これまでのおおまかな量刑の傾向を裁判体の共通認識とした上で,これを出発点として当該事案にふさわしい評議を深 めていくことが求められているというべきである。」

何が何だかわからない。

刑罰の長さと再犯率の相関に関する統計などを見るならわかるが,一般的には公開されていない過去の量刑グラフ(ただの過去の事例の集積に過ぎない)から何択かの刑罰の選択肢を選んで何の根拠もなくえいやとド素人が多数決しているだけじゃねーかとしか思えない。幅広い法定刑を定めている法律は完全に視野の外にあり,裁判員は裁判官からおもむろに与えられた量刑グラフから取り出されたいくつかの選択肢しか見ていない。

 

刑罰は一般予防・特別予防を含む予防こそが目的であり,量刑は刑事政策的・統計的観点を取り込んで判断されなければならない。無味乾燥の量刑グラフは量刑判断プロセスの適切性を何ら認識的に正当化しない。

 

縷々述べたものは,法学を勉強し始めたその最初期に私が躓いたーそしてなお立ち上がれず先に進めないでいるー点を言語化したものに過ぎない。

ZOC「family name」と(略)

 

「泣いてるんだけど,これは悲しいってだけじゃないの」と鼻をすすりながら僕の顔を見て,それから口もとで笑って見せた。
「これはね,正しさの証拠なの。悲しいんじゃないの」
 僕は肯いた。コジマは深呼吸をして顔をあげて,それからもういちど深く息を吐いた。
「……さっき,わたしが君のことを正しいって言ったことを,信じてくれる?わたしが本当に,心の底から君のことをそう思ってるんだってことを,信じてくれる?」
「信じるよ」と僕は小さく肯いた。

川上未映子『ヘヴン』より

www.youtube.com

 


え〜〜〜〜みなさま,こんばんは。
今回はZOC「family name」を単純にみなさんにオススメする記事です。

ZOCを知らない方々は以下のwikiをどうぞ。

ja.wikipedia.org

 

まず最初に強調しておきたいのが,ZOCは大森靖子が常に強調している「孤独を孤立させない」をそのコンセプトとして持っていることだ。

「孤独を孤立させない」ということは,「孤独にさせない」こととは違うだろう。
それは,井上達夫の言葉を借りれば,異質で多様な自律的人格の共生を根本理念とするリベラリズムであるし,木庭顕を引けば,「最後の一人」に着目するデモクラシーの思考である。
え〜〜またそれは単一の個人が〜〜・・・高い身分が・・・(略)

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本ブログでも過去にこのテーマについては取り上げていますね。

moominpapa.hateblo.jp

 

そんな彼女らの新曲,「family name」は,・・・

言いたいこと全部このブログに書いてあったわ。これ読んで。

note.mu


はい〜〜〜〜終了!解散〜〜〜!!!!!!!!!!!!

 

 

悔しいので違う話を書きます

 

(メモ)

(わからんから優しく教えてくれ)

問題を限定するため,以下ではとりあえず現在の日本国に妥当する法実践のみを前提とする。

 

源泉としての国会における議決を考える。
  社会的事実s(t):ある時点tでの国会の議決
このようなs(t)は,対応する法の存在条件であると位置づけられることがある(源泉テーゼ)。
「存在条件」とはなにか。存在条件の二つの解釈を考える。

ある1つのリンゴが目の前にあるとしよう。いまこのリンゴが存在するための条件は何か?と聞かれた際,あなたはどのように答えるだろうか。存在しているものは存在しているのだから,条件も何もあったものではない,存在しているものはアプリオリに存在しているのだと言いたくならないだろうか(ワイだけ?)。

 

また,リンゴが2つ目の前にあり,いまこのリンゴが二つ存在するための条件は何か?と聞かれた際は,多少違う答え方ができるかもしれない。個別のリンゴが2つ同時にあることである(同時点においてリンゴAが存在し,リンゴBが存在すること)と答えられるかもしれない(この答え方は的外れ?)。
上の二つの場面における答え方の違いから,ある物の現在における「存在条件」を答える際には,その物の構成要素が同時に存在していることを述べる必要があるように思われないだろうか。

 

時点tにおけるある法ℓの存在を考えよう。tにおけるℓ:ℓ(t)の存在条件は何か?という問いを有意味な問いだとした場合,どのように答えることができるだろうか。
リンゴの例から類比的に考えれば,s(t’)及び習律的事実C(t);tにおけるRRと法曹集団によるその受容が同時に存在することである,と答えられようか(一例)。

ℓ(t)の存在条件:s(t’)と習律的事実C(t)の同時存在

t’はtよりも過去であるから,この場合現在主義的な存在論よりも,成長ブロック説的な存在論が法の存在条件に関する言明と自然に整合しません? 

 

 

他方,だれかが種を植え,収穫があり,出荷され~というような系譜的事実が過去に存在したこと,が存在の条件であるということも回答の仕方としてはあるだろう(むしろ普通)。
この場合は,存在条件に関する応答との整合性の観点から直ちに存在論上の議論が問題になるとは思われない(知らんけど)。
この場合,内的視点における法の規範性に関する社会的事実テーゼSFTと,法の存在に関する源泉テーゼは以下。

SFT;主体Sは習律的事実Cゆえにφする(良い)理由を有する。
源泉テーゼ;法が存在するためには,社会的事実s(t')が必要である。

 

社会的事実s(t')は過去に存在した系譜的事実にすぎないと解釈されるから,過去に存在し,現在存在していない社会的事実により,法が存在していることとなる。
そうすると,s(t’)は現在存在する法を現時点で構成する要素ではないため,源泉テーゼは法の存在条件についてのテーゼというよりも,法の妥当性に関するテーゼと言う方がしっくりくる気がする。そうなると,法の規範性に関するSFTに近似するように思われ,法の存在論的テーゼと規範論的なテーゼが相対化するような感じ。
法が存在すること自体と,存在する法が規範性を持つことは別問題として考える方に理論的美徳があると思われ,仮に上記のようなことになるのであれば,なんかややこしくなる気もする。

 

~~fin~~

 

賭博・普遍性・主観確率

え〜〜〜みなさん,こんばんは。

近年世間を賑わせた,いわゆるはずれ馬券訴訟についてのメモです。
最判平成27.3.10(刑集69-2-434,以下平成27年最判),最判平成29.12.15(民集71-10-2235,以下平成29年最判),最判平成30.8.29(以下,平成30年最判)を前提とするので,よろしくお願い申し上げます。
また,付け焼き刃的知識で適当なので,間違いがあればご指摘よろしくお願いいたします。

 

*問題状況
ワイは租税法選択でもなければ社会人経験者でもないため,税法について全然知らないのですが,一連の判例の問題状況というか,訴訟の理論的動機というのは大要以下のようなものだと理解しています。
すなわち,まず,馬券を買い予想が的中すれば払い戻しがあるわけですが,その払い戻された収入が,一時所得にあたるのか,雑所得にあたるのかという問題があります。馬券を買う側としては,払い戻しの所得に対し,外れ馬券購入分を経費として控除したいわけですが,払い戻しが一時所得とされれば,認められる経費が狭いため外れ馬券購入分が課税対象額から控除されないことになり,不利になります(雑所得とされた場合,経費として控除される)。

 

 

雑所得該当性はバスケット条項であるため,一時所得に当たるかどうかの検討がまずもって必要となる。
所得税法34条1項によれば,一時所得とは「利子所得,配当所得,不動産所得,事業所得,給与所得,退職所得,山林所得及び譲渡所得以外の所得のうち,営利を目的とする継続的行為から生じた所得以外の一時の所得で労務その他の役務または資産の譲渡の対価としての性質を有しないもの」をいう。
すなわち,あたり馬券の払い戻しが「営利を目的とする継続的行為から生じた所得」に該当するかどうかが問題の焦点となる。継続的かつ大量に馬券を購入し払い戻しも受けていたとしても,個別の払い戻しに着目すれば「一時の所得」であることは明らかなので,仮に払い戻しが「営利を目的とする継続的行為から生じた所得」であるとすれば,雑所得として取り扱われる。更に言えば,「一時の所得」該当性を個別のひとつひとつの払い戻しに着目してみるのであるから,「継続的行為」かはあまり問題ではなく,真に注目すべきは「営利を目的とする」行為から生じた所得かどうかであると思われる。

 

平成27年最判,平成29年最判は,払い戻しを雑所得と,平成30年最判は一時所得と扱った。

 

いずれの事案も,プロ馬券師のような人が,独自データないしプログラムを使用しレース結果を予想し,継続的かつ大量に馬券を購入していた。
他方,平成27年および平成29年最判(雑所得)と,平成30年最判(一時所得)を分けた有意な違いは,購入する馬券を選ぶ際,的中率の高低のみに着目していたか(平成30年最判),それとも実際の投下資本の回収率まで着目していたか(平成27年最判,平成29年最判)であり,また,実際の回収率としても,雑所得として扱われたほうは,回収率が100パーセントを超え(全体としてみた収支がプラス),他方一時所得として扱われたほうは100パーセントを下回っていた(赤字)。
高い的中率を目指すだけならば,高い回収率を目指すよりも簡単といえよう。高い回収率を目指すのであれば,高い的中率に加え,馬券の「買い方」まで工夫する必要がある。


この前提から即座に考えられるのは,「馬券の購入方法として,(少なくともギャンブル性が否定される程度に)高い回収率まで着目したスキームを構築しており,かつ,回収率が現に100パーセントを超える(黒字である)場合,そこからの払い戻しは雑所得に当たる」ということである。
先に述べた注目点からすれば,「馬券の購入方法として,(少なくともギャンブル性が否定される程度に)高い回収率まで着目したスキームを構築しており,かつ,回収率が現に100パーセントを超える(黒字である)場合,馬券購入は「営利を目的とする」ものである」といえそうである。
しかし,仮にこの命題が上記判例から導かれるとしても,この命題は規範的にはどうもおかしいように思われる。
すなわち,馬券について,購入方法が違うだけで「営利を目的」とするかどうかが変わるというのはいかにもおかしいし,購入後の結果論として回収率が100パーセントを超えたかどうかを要件解釈の要素としてみるのは,税法上の行為規範性を著しく減する。

 

回収率が100パーセントを超えたという事後的な事実は,あくまで,馬券の購入方法として高い回収率まで着目したスキームを構築していたことを推認させる間接事実として働いているに過ぎない,と考えることもできるかもしれないし,実際そのように考えるのが解釈論としては自然かもしれない。
そのように考えることで行為規範性の問題をいくらか逸らすことができるかもしれない。
しかし,前者のほうはどうだろうか。高い回収率まで見込んだ馬券購入スキームを構築したという事実から,営利を目的とする(≒ギャンブル性に欠ける,射幸性が否定される)という認定を,「裁判所が」認定することは果たして妥当なのだろうか。
このような事実認定の推論は,すなわち「ある方法を前提とすれば,競馬はギャンブルではない」ことを裁判所が客観的に認定するということと同義なのではないか。
仮にそうだとすれば,裁判所は様々な社会的事象についてギャンブル性の認定の線引きを迫られ,その説明に苦慮することとなろう(それは賭博の一般論として公的な見解となりうる!)。

 

このような想定しうる苦慮が生じるのは,裁判所のギャンブル性についての心証を,いわゆる客観確率により説明することに一因があるように思われる。
すなわち,頻度主義により定義された,世界の側で一意に定まっている確率を前提として説明をしてしまうと,競馬等について「制度として実はギャンブル性がない(場面がある)」と公的に認定してしまうことが問題として顕在化する。
他方,確率を個人の主観的な信念として定義した主観確率を前提とすれば,以下のような説明ができるのではないか。


つまり,裁判官の心証の説明として,ある馬券購入主体について,その者が実際に払い戻された額が回収率100%以上であるという事実をベイズ改訂に用いられる情報と解釈すれば,「その購入主体による購入行為が,営利を目的とする(≒ギャンブル性に欠ける,射幸性が否定される)と言える程度に高い確率で的中するといえる」という裁判官の事後確率に基づく認定をしたとしても,制度一般に対する普遍性を伴った判示にはならず,あくまで馬券を購入した主体相関的に判断したことにとどまり,いいカンジになるのではないか。
知らんけど。

 

 

 

ほろ酔いで適当に書いているので,適宜追記する気がします。