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畢竟独自の見解

新年のご挨拶と故意責任の本質

え〜〜〜〜みなさまあけましておめでとうございます。

今年も余裕かまして生きていきたいと思います。

 

 

 

さて,

故意責任の本質は,規範に直面しつつ反対動機が形成可能であったにもかかわらず,あえて行為に及んだことに対する道義的非難である。

 

微細な点で異なれど上記のような論述は市井に広く流布しているといえよう。本記事では上記論述にたいする簡単な批判的検討を行う。

 

ーまず,「故意責任」という用語を刑法の論述として使用する場合,注意が必要だろう。

「故意責任」は一般的に使用される用語であるが,刑法においては故意が違法要素なのか,責任要素なのか,それとも両方(?!)なのかについて大きな対立がある以上,故意が責任要素であるという立場を表明するような記述をするからには,一定の立場決定を伴っていることを自覚すべきだろう。ちなみに井田説は違法要素のみとするものである。

 

 

ーまた,「規範に直面」とはいかなる場面だろうか。

以後の記述でよく見られるのは,”一般人には規範は構成要件という形で与えられている”みたいなものだったと記憶している。

このような記述がある反面,「法の不知は恕せず」という法格言もあるように,違法性の意識は一般的には犯罪の成立を左右しない。

そうであるとすると,ここでの「規範に直面」とは額面通り,ある行為の際,行為者が,「あ〜,刑法が「〜すべきでない」と私に命じていることだなあ」と認識するということを意味すると解することはできない。

むしろ,「道義的非難」という言葉が使用されていることからすれば,ここでの「規範に直面」とは,「あ〜,道徳が「〜すべきでない」と私に命じていることだなあ」と認識することを意味すると解さざるを得ないのではないか。

しかし,ここでの規範は構成要件という形で与えられているのであるから,この記述においては,刑法が構成要件を設定し,その存在により因果的に,当該構成要件の意味論的内容である命題に対応する道徳規範が創出される(もしくはこの道徳規範が,実際に国会により主権者からの命令という形で可決・施行され存在する刑法(とその内容である構成要件)の存在に随伴し存在する)という前提があると思われるのではないか。

 

仮にこのような前提が上記の論述に存在しているとすれば,直ちに以下の点が問題になるだろう。

すなわち,上記の前提が正しいとすれば,ある刑法的な故意判断は必然的に道徳的判断を伴うが,amoral legalistの存在可能性を承認しうる以上,そのような判断の必然性は破られうるだろう。

また,宗教的義務と道徳的義務の真正な衝突の場面と思われるイサクの捕縛Akedat Itzchakの場面を想定せずとも,法的判断と道徳的判断が衝突する場面は我々の多くが経験してきていることだろう。

 

 

ーさらに,「反対動機が形成可能であったにもかかわらず」も問題となる。

おそらくここでは,ある行為者のある行為に対し責任を問う際の必要条件としての他行為可能性があったこと(そして前提として自由意志に基づく行為であること)が想定されているのでしょう。

すなわち,ある行為者が,ある人を刺し殺してやろうとナイフを振り上げた際,「やっぱ殺さんとこ」という「反対動機」が形成可能だったかどうか(そしてそのような反対動機が実際に形成されれば,反対の行為(ここではナイフで刺し殺さないこと)がなされていた)という検討が,責任追求に際しての実質的な理由を形成しているのである。

しかし,このような考えは以下のような問題点を含んでいるように思われるため,注意が必要だろう。

すなわち,ある行為に対する動機が(真摯な判断によって)形成されたとしても,他の異なる動機によって,その動機が行為者を実際に行為に及ばせる因果的な力が切断されることは合理的に考えうる。たとえば,私が「ケンタッキー食べたいな〜」と真摯に判断し,ケンタッキーを食べに家を出るという動機を形成したとしても,「やっぱ金欠だったわ」とかの理由により,ケンタッキーを食べに家をでないという動機もまた形成され,後者の動機が優先された結果ケンタッキーを食べに家を出ないとしても(前者の理由がなお重みを有するとしても)それは合理的な実践的判断だろう。

また,ある判断(ここでは法的判断(とそれに随伴?する道徳的判断))をなしたとしても,そこから必然的に動機付けが伴うと想定すること自体,重大な問題を含んでいる(規範的判断に対する動機付けについての内在主義)。

さらに,そもそも,責任を問う際に他行為可能性が必要条件とすることは,近時多くの批判を受けている(むしろ,自らの行為の統御(可能性)という点での行為者性agencyこそが責任の必要条件とする説が有力であろうか)。

例えば,信号無視をして車で交差点を右折(ないし直進)し,結果事故を招いたという場面において,当該車は,右折(ないし直進)の際偶然にも左ハンドルを切れないような形で故障していたとする。この場面で運転手は右折ないし直進をしようと思い実際に行ったということには争いがなく,しかしこのような運転手に責任を問うことに問題は無いように思われるだろう。

 

 

以上の簡潔な検討からもわかるように,上記の論述には多くの(((メタ)倫理的な・法的な)重大な)問題があり,このような論述を安易にありがたがるのは,あまり望ましいことではないのだろうと思う。

 

 

以上