ワイワイブログ

畢竟独自の見解

成文法主義(?)

え〜〜〜〜〜〜,みなさん,こんばんは。

分野別修習もそろそろ折り返し地点,引き続きゆるゆるとやっていこうと思います。

今年度の司法試験もそろそろですね。受ける友人も多いので,ちょっと緊張しますね。応援しています。

 

 

さて,標題についてですが,適当に思っているところを書きます(マジで適当)。

 

ここでワイが着目しているのは,制定法(statute law)がもつと思われる①成文化され②一定の機関が制定した法,という側面のうち,①について(written lawの側面)。

日本はいわゆる制定法主義,成文法主義を採るとされ,英米圏と対比される法システムを採用しているといわれる。ここでいう「成文法」とは,法の意味内容が文章の形式で表現されたものをいい,”ただ一つ存在する成文法典”(死海文書のような)のような特定の物理的存在をさすのではない。

 

ある国家が成文法主義を採用しているという時,典型的にはその国が制定した最高法規たる憲法の解釈は,成文法によって拘束される。というより,「解釈が成文法により拘束されることがありうる」ということをよりよく説明しうる法理論が,制定法に先行して存在する法規範たる成文法主義によって要請されると思われる。

 

「法の意味内容が文章の形式で表現されたもの」とはなにか。ここでいう「文章の形式」という言葉によって含意されるのは,我々が脳内で思考する時に想像しうる文であったり,ある人々によって共有されるコードのようなものーー例えば,「山月記」について一定の者たちは「その声は,我が友,李徴子ではないか」という一文を脳内に呼び起こすことができるだろうが,そのときの”共有されている脳内の一文”ーーではない

ここで含意されるのは,我々人間の側ではなく,世界の側に存在する客観的な存在ーー紙の上に一定の形で存在するインクであったり,ディスプレイ上での一定形式のライトの表示などーーとしての「成文法」の形式で,ある法が制定されているということだ。

実定法学者らによる特定の法の解釈についての論争も,このような成文法主義の要請の元では,ーーある”書”(言い方は悪いが,それは和紙などの紙の上の墨汁による「しみ」である)について我々がその審美性について議論するのと同様にーー我々が「文字」として認識を共有しているある一定の形を有する点と線の意味をめぐる論争であると捉えられるべきだろう。

 

解釈が成文法により拘束される事態がありうる,とはどのような意味か。さらにここで含意されているのは,次のようなことだろう。

「解釈」は一般的にはある文章の意味内容を確定させる(そして認識する)作業をさすのであろうから,成文法の意味内容を確定させるための作業である解釈が,成文法により拘束される,というのは循環している。そうではなく,通常我々が成文法主義の概念的要請とするのは,解釈が一定の「文理」によって拘束される,ということであろう(「文理」など存在しないという立場もあろうが,それは制定法以前に存在する成文法主義の要請に違背するというのが本エントリにおけるワイの立場)。

 

では「文理」とは何か。ある一定の形を有する点と線の並びについて集団内で構成され存在する社会的な慣行によって特定される,世界の事態を指すだろう。例えば,「現在福岡は晴れている」という文字列について,日本語を解す集団内では,ある時点において福岡上空に雨雲が存在せず,太陽が照っているという世界の事態を指し示す文字列であることが社会的慣行として存在しているだろう。

上記の例はあまり慣行の成立について疑問がもたれないものだろう。

他方,刑法190条

死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、3年以下の懲役に処する。」における「死体」の文字列について,たとえば日本語話者内において,それが脳死状態の者を含むのかどうかについて,ただ一つに定まる慣行が存在しているとは言い難く,この場合はいずれの慣行もがあるというべきだろう。

ここで,「慣行など,客観的に特定できないだろう!」という疑問が生ずるかもしれないが,それは上記の立場に内在する問題ではない。社会的慣行は世界の側に(複数(?))存在し,ある文字列について〜という意味を与えることこそが一般的なのだ,慣行としてあるのだという争いは普通に我々がしていることであるし,それは文字列の「文理」を特定するための真正な争いだろう。

 

結局ここで述べておきたいのは,法解釈に関する立場決定が,すでに成文法主義によって制限されざるを得ないのではないか,ということだ。

我々はインクのシミの意味についてこそ,真剣に争っているのである。