ワイワイブログ

畢竟独自の見解

「成文法主義(?)」についてのメモ

え〜〜みなさんこんばんは。

先日のエントリに関連して,以下のやりとりがあったのでご紹介しておきます。ご丁寧にありがとうございました。赤文字にした部分が特に重要な部分です。

moominpapa.hateblo.jp

 

質問者
【確認】
主に3つの主張から結論を導かれてると思うのですが、
①日本は成文法主義を採用している。
②成文法は法の意味内容が文章の形式で表現されたものである。
③法規範たる成文法主義によって解釈が成文法により拘束されることがありうるということをよりよく説明しうる法理論が要請される。
この3つが主な主張と考えて大丈夫でしょうか。また、③は①の対偶(文章の形式で表現されてないものは法の意味内容ではない)より導かれたものと見てよかったでしょうか。

 

【文章の形式について】
「文章の形式」についての議論ですが「文章の形式」は客観的な存在としての成文法の形式で法が制定されていること、とされていたかと思います。ここで述べられてる客観性は法が制定されていることに担保されており、成文化はその客観性の可視化をしてると思われるのですが、この見立ては誤りでしょうか?


【(成文法の)文理が指し示す世界の事態】
文理は社会的慣行によって特定される世界の事態とされていました。刑法190条の例示は、「死体」の指し示す世界の事態の特定について複数社会的慣行が存在すること例証するものでしたが、刑法190条がその文章全体として指し示す世界の事態について、いまいちピンと来ませんでした。刑法190条が指し示す世界の事態はおおむね法の適用可能性と見てよかったでしょうか?

 

【法解釈について】
議論をおってみる限りで、法解釈とは法の文理(成文法)が指し示す世界の事態(法適用可能性)を特定する社会的慣行ということかと思われました。
議論から解釈の対象が限定されることはわかるのですが、解釈のしかた(社会的慣行?)が限定されるかは判じかねました。解釈のしかたが限定されるかを説明することで、②における「解釈が成文法により拘束されることがありうるということをよりよく説明する法理論」が明確になるのではないかと思われました。解釈の対象が限定されることは解釈のしかたが限定されることと言っても差し支えないかと思いますが、一方で解釈の対象は成文法であると述べることによる、その含意(あるいは含意してないもの)について伺えたらと思います。

 

ワイ
【確認】
そのような理解で良いです。付言しておくと,成文法主義は,国がどのような実定法システムを採用するかを選択するにあたって参照されるメタ規範です(英米圏は異なるメタ規範を選択している)。

 

【文章の形式について】
ここでの客観性というのは,文字通り我々が目視できるという意味で使用していることはお分かりだと思いますが,メタ規範たる成文法主義は,そのような意味での客観性があることが成文法主義下における実定法の必要条件であると主張します。機関による制定手続と成文化(客観化)はいずれかが欠けたら法としての必要条件を備えず,一方が他方の担保的関係にあるという感じではないです。

 

【文理が指し示す世界の事態】
なかなか文章で説明することが難しい部分ですが,190条として表されているテクストについて,こうこうこういう世界の事態の時に,当該条文が適用されることになるという(複数の)慣行がありうるでしょう。もっとも,ひとつの条文テキスト全体についてその文理が問題になることはないでしょうね。

 

【法解釈について】
「法解釈とは法の文理が指し示す世界の事態を特定する社会的慣行」とは考えていません。議論のターゲットは,法解釈の「対象」と「枠」についてで,対象については「(いわゆる)インクのシミ」,枠についてはインクのシミの意味について社会的に構成される(複数の)慣行によって枠づけられる,ということがメタ規範たる成文法主義によって要請されると考えています(その程度にとどまる主張)。例えば,190条に現れる「死体」というテキストとしては,おそらく,心臓死のみという慣行と脳死も含むという慣行があると思いますが,それゆえ法解釈としてはそのいずれかを選ばなければいけないことになります(慣行として成立していない第三の選択肢は選べない)。
「解釈の仕方」ですが,そこでの含意は簡単に言えばテキストの軽視(あるいは無視)というような立場は採ることができない,という程度の主張です。

解釈対象が成文法であること自体は否定し難いことですが,成文法主義の要請を軽視する立場であれば,成文法の解釈方法としてそのテキスト文言(とそれについて社会一般の人々はどのような意味として考えているか)を軽視ないし無視することも理論的立場としてありえ,そのような立場を拒否するというのがワイの意図するところです。

 

 質問者

【文章の形式について】
目視できる形で法が世界に存在していることが、成文法主義下での客観性を有することの必要条件ということですが、「目視できる形で」存在することの意義はその法内容の検証可能性にあると私は思っています。一方で、ムーミンさんは検証可能性としてでなく、世界に目視できる文字として存在していることによって何らかの重要性を見いだしてると思うのですが、それについて伺えたらと思います。

 

【法解釈について】
いわゆるテキストの軽視という立場とは、ドゥオーキンが述べるところのプラグマティズムと見てよかったでしょうか? あるいはドゥオーキンが支持する法の純一性も含めた立場も、テキストの軽視をする立場という意見だったでしょうか?

 

ワイ

目視できる文字として存在することの意義とかは私が重要視しているというより,それが成文法主義の概念的要請であることを述べているにすぎません。また,テキストの軽視の立場とは特にドゥオーキンを指すとかはなく,日本の実定法解釈においてテキストを軽視する立場全てが妥当ではないというものです。
確かに文章全体としてぼくが目視できる文字として存在することを重要視しているように読めますね。スタンスとしては,重要視している,というよりも現実の法実践に良く整合するように思っている,という感じです。

 

質問者
質問についておおむね納得出来ました、長丁場のお付き合いありがとうございました。
また、ブログの記事については興味深く拝見しておりました。次回の記事もまた首を長くして待ってます。それでは失礼しますm(__)m
P.S.坂道グループに絡ませて書かれた記事個人的に好きです。