ワイワイブログ

畢竟独自の見解

欅坂46「不協和音」とデモクラシーにおける「孤立した個人」

全員が見捨てているんだから私がやるしかない。

ポリュネイケースは完全に一人になってしまっている。私が埋葬しないで誰が埋葬するのか。

 

―木庭顕『誰のために法は生まれた』254頁 

 

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え~~こんばんは。

きょうは最近でたコバ先生の大名著、『誰のために法は生まれた』のレビューをかましていきたいと思います。

 

この本はコバ先生が5日間にわたって桐蔭学園の学生たちに対し行った特別授業の内容がもとになっています。

全五回の内容は以下のようになっています。

第1回:法はどちらの側にある?‐『近松物語』

第2回:個人と集団を分けるもの‐『自転車泥棒

第3回:徒党解体のマジック‐プラウトゥスの喜劇

第4回:見捨てられた一人のためにのみ、連帯(政治、あるいはデモクラシー)は成り立つ‐ソフォクレスの悲劇

第5回:日本社会のリアル、でも問題は同じだ!‐日本の判例

 

第1回と第2回はそれぞれ『近松物語』、『自転車泥棒』の映画を学生に見てもらったうえコバ先生がソクるという内容、第3回と第4回はローマ喜劇、ギリシャ悲劇を読んでもらったうえコバ先生がソクる感じです。いずれも学生はとても楽しそうで、よかったです(小並感)。

第5回は中高生相手に判例2つ読んできてもらうという血も涙もない感じ(しかもそのうち一本は占有訴訟に対して本権反訴を許容した例のアレ)で、それはそれでよかったです(コナミ)。

 

わたしはなんならこれに登場した映画や喜劇等は全然見たことがなかったのですが(判例はもちろん知ってたけど)、そんなわたしのような「え~~近松物語なんてみたことないよ~~~」という人でも大丈夫、いずれもコバ先生書き下ろしの詳しめなあらすじがついているので問題なく読めます(ただ現物はちゃんとみたりしろよ、とは書かれている)。その証拠に、わたしはこの本を読んだだけで茂兵衛になりたいと思い、アンティゴネーにあこがれ、そしてフィロクテーテースに涙を流しました。

 

コバ先生を待つまでもなく、一応法律を勉強している身のワイが一番、切実に大事だと思っていることで、かつ本書のテーマでもあるのは以下のようなものです。

以下に見るように政治や法はこの自由のために存在するから、reciprociteのさまざまなメカニズムに苦痛を覚える、苦痛を覚える人のその苦痛を理解する、ことができなければ政治も法も全く理解しえない。集団によって抑圧される個人の苦しみに共感しうる想像力を持たない人は法律学の学習も諦めた方がよい。

―木庭顕『新版ローマ法案内』9頁

  みなさんは、法律とか人権とかデモクラシーとか、なんのためにあるのだと思いますか?これらの内容を省察し、厳密にその実現の条件を探る、高度な知的営為が積み重ねられてきましたが、人々はいったい何を問題と感じ、何に立ち向かっていったのでしょうか。

 この授業では、まずその問題のことを知ってもらい、驚いてもらいます。それはある切実な、切迫した問題です。

 でも、他の人の切実な苦痛に共感できなければ問題を理解することができません。共感するためには豊かな想像力が必要です。…

―木庭顕『誰のために法は生まれた』まえがき

私の授業では、頭を動かすことはそんなに大事なことではない。それより大切なのは、感じること、直感することだ。どうしてこうなっているのかなあ、ここで身を投げ出すってどういうことかなあ、とかですね。そして、こういうのは苦しいな、嫌だな、とその人の苦痛に共感する想像力がないと、何が問題かがつかめないね。これをプロの法律家はだんだんできなくなる。

―木庭顕『誰のために法は生まれた』68~69頁

 本書では徹底して「完全に孤立した個人」(茂兵衛、アントニオ、アンティゴネー、フィロクテーテースなど)に焦点が当てられ、そのリアルな苦痛に共感し、そしてその個人を救い「集団」を解体する営為を、文芸作品を素材にしつつ、先生と学生の対話を手掛かりに、目の当たりにすることができます。

 

野暮ではありますが、この本の実践的な狙いは、紹介される様々な文芸作品に出てくる「完全に孤立した個人」に「真摯に」共感する精神を本書を読み多くの人々が共有することで、まさにデモクラシー存立の基礎が涵養されることにつながるというものでしょう。したがって、ワイが本書をこうしてブログに紹介し、みなさんに読んでもらおうとしているのもその一助になればと思っているからです。みんなホント黙って読んでください。

 

ところで、本エントリ―の題名は「欅坂46「不協和音」とデモクラシーにおける「孤立した個人」」になっていますね。忘れてました。

みなさんは欅坂46「不協和音」を聴いたことはありますか?かなり有名な曲なので一度はあるかと思います。

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歌詞全文はこちら

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この曲にはまさに、「孤立した個人」が描写されているといってよいでしょう。

まわりの誰もが頷いたとしても 僕はYesと言わない

絶対沈黙しない 最後の最後まで抵抗し続ける

叫びを押し殺す 見えない壁ができてた

ここで同調しなきゃ裏切り者か 仲間からも撃たれると思わなかった

 このように抵抗する人に心から共感することができますか?「事情次第」「迷惑さえかけていないのであれば」「変わり者めが」みたいに思っていませんか。事情を抜きにして、迷惑がかかることを抜きにして、そこまで追い詰められた、しかしかけがえのない何かを守ろうとする個人の立場に、なお共感を向けることは可能だと思うのです。

 

ワイは本書を読んだあと、平手友梨奈さんがアンティゴネーかと思いましたし、なんなら茂兵衛かと思ったくらいです。

本書でのコバ先生と学生のやり取りを見ておきましょう。

だけどアンティゴネーのほうはどうだろう。これはさすがに生きているんだから、集団を作っているかな?

―いや作っていないです。

どうしてだろう。

ー同じ考えを持っている人がいない。

すっばらしい。Szさんがさっき先回りした点だけれど、このことはすごく重いことだ。気が付いたかどうかしらないけれど。

 アンティゴネーの考え方の特徴は、他の全員の考え方と自分は違っているだろうと思っていることだ。迎合しない。絶対にしない。国の命令が出ていても自分の考えをあらためない。…

239頁

 アッッッッッッ!!!!!!これどこかで見たことある!!!!!!!!!入江意見や!!!!!!!!!!!!!!!

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すみません、興奮してしまいました。

 

ああ 調和だけじゃ危険だ

ああ まさか自由はいけないことか

人はそれぞれバラバラだ

何か乱すことで気づく もっと新しい世界

 ここで述べられている「調和」「乱す」というのはそれぞれ、徒党の論理とそれに対抗する個人を指しています。これはもう間違いありません(大胆な攻め)。

人はそれぞれかけがえのない個人であり、我々はそれぞれ互いにかけがえのない関係にある。「もっと新しい世界」というのは、そのような”かけがえのなさ”に気付いた上での「孤立した個人の連帯」、そしてデモクラシーの存立を表わしていると読むのは完全に許されているといっていいでしょう(さらなる攻め)。秋元康先生は天才です。

 

 

さて、脈絡なく書きましたが、正直なところ中身にいちいち踏み込んでレビューをするのはそれこそ野暮であり、本書が伝える法の精神が単純化して受け取られるおそれもあります。なので、あえて踏み込みませんでした。

 

ただ、ワイのこの本をみなさんに読んでほしいという熱量はちょっとは伝わったでしょうか。本当にみんなに読んでほしいです。頼む。いらん本読んでる場合じゃないでホンマ。

 

~fin~

 

 

 

アンドゥムルメステール入門!まずはこれから!

え~~皆さんこんばんは。

今日は、「アンドゥムルメステール入門!まずはこれから!」と題しまして、安藤馨先生の論文や本を読みたい、でも難しそうだなあ、何から読めばいいのかなあというような全国8000万の悩める子羊たちに、不肖わたくしが男一匹立ち上がったというわけです。

 

それでは、さっそく始めましょう。

 

まず、安藤先生の文章にスムーズに入門するには、安藤先生の思想的立場をある程度踏まえておかなければいけないでしょう。たとえば、功利主義、物理主義、規範的排除的法実証主義、道徳実在論、外在主義、態度的快楽説、etc...

 

とりわけ、安藤先生よりバキバキな功利主義者は今日本ではいないと思うので、みなさんはこれから「功利主義者といえば?」という質問に対しては、ベンサム、ミルというありきたりな回答ではなく、「安藤馨先生!」と元気よく答えましょうね。

 

話がそれましたが、安藤先生のある種なじみのない立場を知るには、『法哲学法哲学の対話』に収録されている米村幸太郎先生の「少し離れたところからの眺め――≪異世界通信≫としての対話」から入るのがよいでしょう。

 

法哲学と法哲学の対話

法哲学と法哲学の対話

 

 

もっとも、これだけでは足りないので、RATIO(6)所収の安藤馨「あなたは『生の計算』ができるか?--市民的徳と統治」がわかりやすく、かつ明確に安藤先生の立場を表しているでしょう(もっとも、脚注になると本気モードになっているので、最初は脚注は読まない方がよいかもしれない)。 

ラチオ06号

ラチオ06号

 

 読みたくなると思うので、冒頭の文章を引用します。

「人の生命は地球よりも重い」とは巷間よく言われるところではあるが、耳にするたびに「でもひょっとすると木星よりは軽いのではないか」といった問いを思わず発しそうになる。或いは、「地球の全体には人が含まれるのだからもし人の生命が地球上の人体と同一の時空間に位置するのであれば『地球よりも重い』は意味をなさないのではあるまいか」とか「人の生命の重さというのは生きている時の人体の重さから死んだときの人体の重さを差し引けば宜しいのですか」といった、相手を怒らせそうな疑問がつい口をついて出そうになるし、実際出たことがある(そしてなるほど確かに相手は腹を立てるのだが)。しかし、これらの問いとそれに対する人々の反応は重要な意味を持っている。というのも、「重さ」が文字通り「質量」として受け取られた時にそれを不適切なものとみなすとはいえ、比喩的にないし類比的に用いられた際に「重さ」は明らかに比較可能でかつ集計可能な何事かを指し示すために用いられるからである。…

 どうだろう、読みたくなったんではないでしょうか。

あと比較的読みやすくかつ安藤先生の立場が分かりやすいのは、「幸福・福利・効用」や「功利主義からサンデルまでの長い話」、「アーキテクチュアと自由」、「功利主義と人権」、「統治と監視の幸福な関係」あたりでしょうか。これらのうち2つくらい適当に読むと良いでしょう(たぶん)。

 

自然主義入門やメタ倫理学入門、分析哲学入門などで入門しまくっておくのもいいですが、並行して、もしくはむしろ先に、論文を読み始めるほうが(研究者またはその卵のようなプロではない)我々にとっては楽しくなってくるのでよいと思います。

 

上のような(安藤先生の文章の中では)簡単な部類に入ると思われるものを読んだら次は、読みやすさ中レベル(わたし調べ)の論文に入っていきましょう。

わたしが独断と偏見で分類した読みやすさ中レベルの論文は以下の通りです。

「統治理論としての功利主義」/「応報主義と帰結主義の相剋」 

功利主義の逆襲

功利主義の逆襲

 

 「世代間正義における価値と当為」 

グローバル化のなかの政治 (岩波講座 現代 第4巻)

グローバル化のなかの政治 (岩波講座 現代 第4巻)

 

「租税と刑罰の境界史――法の諸モデルとその契機」 

現代租税法講座 第1巻 理論・歴史

現代租税法講座 第1巻 理論・歴史

 

 「功利主義者の立法理論」 

立法学のフロンティア〈1〉立法学の哲学的再編

立法学のフロンティア〈1〉立法学の哲学的再編

 

 「法と危険と責任と」/「団体が、そして団体のみが」/「最高ですか?」

正直今書いていて「急にレベルあがっちゃったな」と思いました。でも大丈夫、大丈夫です。なぜならおもしろいので。

このなかでわたしが好きなのは、「そぜけい」、「ととと」とかですかね。

 

これらを読み、いよいよアンドゥムルメステールの一員となった君たちは、ついに読みやすさ上級レベル(わたし調べ)へと突入していくのがよいでしょう。

「制度とその規範的正当化」

「現代法概念論の諸相」

「規範的談話の意味論」

「メタ倫理学と法概念論」

帰結主義と『もしみんながそれをしたらどうなるか』」

「現代自由意志論の諸相」

「集団的行為主体と集団的利益」

「『規範と法命題』-行方を訊ねて」

「道徳的特殊主義についての短い覚書」

等々です。「いや、タイトル急にかっこよくなり杉内…」と思いましたか?わたしは思いました。

このなかでわたしの好きなのは、「せいきは」「だんいみ」とかですかね。

 

 

まあ、ここまで滔々と適当に書いてきましたが、ぶっちゃけ結局のところアンドゥムルメステールの聖書こと『統治と功利』を最初から読み始めてもいいと思います。 

統治と功利

統治と功利

 

 

さあ、これを読んだあなたも、今日から安藤馨先生ライフをレッツエンジョイ!!!!!最大多数の最大幸福を目指そう!!!

 

~FIN~

 

写真撮影は「検証」か?

刑訴の話です。興味ない方はお帰りください。

 

また、書く前にすでにめんどくさくなってきたので、下調べや教科書等のリファー、条文摘示は極力なしでいこうかと思います。

また、当然ですが、強制処分たる性質を有さない写真撮影も事案との関係ではあるかと思いますが、以下で想定しているのは強制処分たる性質を有する写真撮影のみですのであしからず。(なお、以下での論述に関わりますが、細かいが本当は「強制処分たる性質を有する写真撮影」ではなく「強制処分性が問題となるような態様で行われる写真撮影」と書きたい)

 

 

写真撮影は「検証」か?という質問に対し、(「押収」の場合や「捜索」の場合もある、という返答をするちょっとめんどくさい人を除けば)YESと答える方はそれなりに多いのではないかと思います(わたくし調べ)。

 

しかし、これはワイの持論なのですが(それゆえ畢竟独自の見解なのですが)、写真撮影は「検証」ではない、と言いたい(かってにしろ)。

 

 

司法試験との関係で有名なのは、捜索差押に伴う写真撮影の可否でしょうか。

まず、その論点では強制処分法定主義が問題となっているのか、それとも令状主義が問題となっているのか、どっちなんでしょうか。(司法試験受験後と思えない問い)

 

令状主義の問題であると答える場合、論理的にいって強制処分法定主義は問題にならない、それはクリアしていると答えることになるのかと思います。

そして、少なくない方々は、これは令状主義の問題である、と答えるのではないかと思います(ワイ調べ)

判例は、捜索差押に伴う写真撮影を、事案との関係によりますが、捜索差押令状に付随する効力により説明していたかと思います。それゆえ、令状主義の問題であると答えるのかもしれません。

 

 

では、強制処分法定主義はクリアしているのであれば、その「特別の定」はどこに求めればよいのでしょうか。ここで、表題の問いにつながります。

写真撮影が「検証」であれば、当然「検証」の根拠規定が「特別の定」になろうかと思います。しかし、そうであれば、捜索差押に伴う写真撮影は検証令状が必要になるのではないでしょうか。

この点、捜索差押がなされるのであれば、検証による法益侵害が既に包含されているとして、別途検証令状は不要なのだ、というような反論があるのかもしれません。

なるほどそうなのかもと思う反面、冒頭で若干述べた、写真撮影には「検証たる性質」がある場合や、「捜索たる性質」「押収たる性質」の場合がある、というような話が無意味になるのではないでしょうか。また、法が類型的に捜索差押と検証を別途規定したことと正面から抵触することになる解釈論にはならないでしょうか。

 

ここでワイが言いたいのは、受験生おなじみの「写真撮影は検証たる性質を有する」ということと、「写真撮影は検証である」ということはイコールではないのではないかということです。

つまり、事案との関係で留保が必要な場合もありますが、「写真撮影は検証それ自体でなく、検証に「必要な処分」である」と理解しておきたいのです。

 

 

強制処分は、強制処分法定主義の要請ゆえ「特別の定」が刑訴法規内に必要な一方、任意処分であっても法律の留保原理から法律の根拠は必要であり、その根拠規定は197条1項になるかと思います。

そうすると、「必要な処分」として111条1項が規定されているのは、197条1項の任意処分として説明ができないような場合、つまり強制処分の場面が包含されていると思われます(鍵を壊すなどは強制処分性があるのではないでしょうか)。したがって、「必要な処分」を定めた111条1項などは、197条1項但書をうけた「特別の定」としての役割を有しうることになります。

(上記アイデア判例と抵触するかもしれませんが、判例の結論を捜索差押に伴う写真撮影を「必要な処分」として説明を組み替えることは可能かと思いますし、そうでなければ、強制処分性をどう考えているか定かでない判例の方がおかしくね、というのが私見となろうかとおもいます)

 

正直どうでもええやん、って言われるとまあそうなんですが、試験との関係では、もしかしたらそういう細かい部分は書かなくても良いとも思いますが、仮に書くのであれば、強制処分法定主義をクリアする際の条文摘示が「検証」それ自体の規定をあげるのかそれとも「必要な処分」を規定した111条1項をあげるのかが変わろうかと思います。

 

令状裁判官が審査し許可した侵害法益とことなるヤツを撮影するのはダメやで、って部分はそれこそ強制処分法定主義をクリアした後の、令状主義プロパーの問題として説明ができます。

また、「押収たる性質」や「捜索たる性質」を有する写真撮影も、押収それ自体や捜索それ自体ではなく、あくまでそれらに「必要な処分」として説明ができるかと思います(準抗告の可否についても然り)。

上記は捜索差押に伴う写真撮影を念頭に置きましたが、それ以外の、捜索差押を伴わない、しかし強制処分性が問題となるような態様で行われる写真撮影の場合も同様です。写真を撮る捜査官が、カメラを通さず、五感の作用を用いて行う対象の把握こそが検証であり、撮影それ自体は、その把握結果を保全するための「必要な処分」ということになります。

 

 

以上です。

 

 

 

 

 

 

「「結論の妥当性」についてのメモ」についてのメモ

moominpapa.hateblo.jp

 

これに関してツイッターで面白いやり取りがあったので、載せておきます。

言わずもがなではありますが、ワイの発言は畢竟独自の見解ですのでそのように。

 

【やり取り①】

ワイ:法の認識の順序として、細かな部分ではなくフラーの挙げる徳性のようなものがまず先に認識されるあるいはされないということになるのかな

 

?:ある法が明晰性等を判断するためには、その法の個別の条文や語句を材料にして、まずはその部分の明晰性等を判断することになるけど、しかし、ある部分が明晰でないとしても、他の部分を読みあわせれば、全体としては明晰だということもありえ、しかしその他の部分が明晰かはさらに他の部分も参照しなけ(…以下循環)(カッコ内はワイ)

 

ワイ:法の明晰性は法的価値ですが、その有無の判断において法以外から判断材料を供給してくることは排除されないのでは?何らかのインクの染みについてこれこれこういう風に解釈する(そしてそれは「明晰」であると考える)という我々の信念(そしてそれは世界の事態の一部)を参照しつつの判断をするような

 

?:当初のリプライの趣旨から変わるけど、その明晰性に関する信念って、法文に限らず、様々な文章に共通するか、あるいは、そういう信念がジャンルごとにあるとしても、ジャンル間で相互に影響を与え合うものだろうから、法に閉じたものではいられなくない?

 

ワイ:例えば刑法における責任能力の有無の判断は生物学的・心理学的要素を考慮する必要があり十分専門家の判断を尊重する必要があるものの究極的には裁判所の評価に委ねられているように、法の明晰性は変わらない一方判断資料の変化・進歩により認識のアプローチは変わる、ということはあるでしょうね

つまり実際の法の明晰性の具備の有無と、我々の認識に齟齬が生じることはあり得るでしょう(そして我々はそれに気づかない)ということっす。 もしくは法の存在論自体に関わりますが、法の変遷により法内部での法的価値の変遷もあるんじゃないですか

 

?:なるほどね、認識論上は閉じたものではいられないけれども、存在論上は閉じたものでありうる、ということか。両者の相関性も問題になるし、明晰性に絞れば、この概念自体が認識と深く相関している気もするので、この点も論点になるけど、でも発想としては面白い。安藤先生がどう処理するか待ち遠しい。

 

ワイ:(深く頷く)

 

 

【やり取り②】

ワイ:法の認識の順序として、細かな部分ではなくフラーの挙げる徳性のようなものがまず先に認識されるあるいはされないということになるのかな

 

??:結局、法解釈における「結論の妥当性」は「L.L.フラーのいう法の徳性を備えていること」に尽きる、ということ?

個人的には「すわりのよさ」みたいなより実体的あるいは道徳的な価値の吟味を含むように思うけど(排除的法実証主義をとるかどうかで決着かもですが

 

ワイ:仮に解釈された法の適用後の世界の事態の道徳的評価を含む概念であるとすれば、排除的法実証主義かどうかで変わると思いますが、??ニキが挙げるような「すわりのよさ」的な解釈時の吟味は、よく分析すればフラーの徳性のいずれかを満たすかを吟味してることに還元されるのではと考えています

実況!パワフル司法試験

え~みなさんこんにちは。

 

なにはともあれ司法試験を終えたので、記憶が残っているうちに試験中感じためちゃくちゃどうでもいいことを思いつくままに残しておこうかと思います。ちなみに試験自体へのアドバイスや感想は一切ないのでそのように。

 

 

・試験地はマイドーム大阪だったのですが、これどう思います?

 

・ ワイはすぐ近くのアパホテルを使いました。利便性がよく隣にやよい軒があるので、受験生におススメです。アパホテル最強説 思想信条の観点から使わない人もいるかもしれませんが

 

てか、あの貰えるペットボトルの水に社長の顔をのっけるのはどうなんだ。「私が社長です」←うるさい でも結構あの社長嫌いじゃない…部屋に社長の本が置いてあってパラ見したんですけど、会長がバキバキの右翼だからこれもかなと思いきや結構普通の自己啓発本って感じでワイの中でちょっと好感度があがってしまった

 

 

・前日夜、初日夜、3日目夜とやよい軒を利用したんですけど、マジで司法試験受験生に占拠されててオモシロかった 空間に占める法律力(リーガル・パワー)の値がすごく高い気がした

やよい軒でのワイのおすすめは野菜たっぷり肉野菜定食です。いま定食と打つときに抵触と打ち間違えました パソコンが法律に飼いならされている

とろろは150円(高い、もっと安くしろ)ですけど毎回つけてました。やよい軒ってご飯お替り自由じゃないですか、生卵をつけるのはリスクがあるので受験生はとろろを注文しましょう。ご飯は誤判と打ち間違えた

 

 

・模試の時机がガタガタしまくるやつでふざけんな、いい加減にしろとか思ってて危惧してたんですけど、当日の机は全然違うやつでガタガタしなかった 受験生は安心してください

初日着席するとき隣の人に「よろしくお願いします~」とかいって挨拶しといた これによりなんかリラックスして試験に臨むことができるのである(受験豆知識)。周り友達ばっかりでなんも緊張しなかったけど

 

・試験開始一分前に試験監督とか監督補助員が、一番前の真ん中にいるボス監督みたいな人に向かって、人差し指を立てて一斉に合図を送るんですけど、毎度毎度それが面白くて笑いそうになっていた これは受験生あるあるではなかろうか(ない)

てか試験中は試験室内で水とか飲んでいいのに、試験前は飲めないのなんなん?著しく合理性を欠くのではないか?

 

 

ツイッターにも書いたんですけど、中日は昼にドトールで勉強してたんですけどコーヒーがクソマズだったうえにそのあと入ったつけ麺屋で上地雄輔のミツバチがかかっててさんざんだった あんなん聴いてるヤツと友達にはなれそうもない

 

 

・やっぱ受験生たるもの、「平成30年度司法試験試験場」みたいな看板の前で写真とりたいじゃないですか これは有益情報ですが試験後には看板は撤去されてるので、撮りたい人は朝会場入りするときに撮りましょう。

 

 

・万年筆を買ったにもかかわらず試験は結局SARASA0.5で臨んだ。なんてこった

ワイはSARASA原理主義者なので、ジェットストリーム派の人は今すぐこの記事を閉じるか、SARASAに変更してください SARASAは神

 

 

法哲学は司法試験に一ミリも役にたたない

 

以上です。

 

 

 

 

 

ぼくらはみんな蛋白質の塊

「無道徳者のいわば双対として、道徳判断に於いて誤るが道徳的に正しく行為する主体、というものもありえよう。そのような主体は認知的にはともかく道徳的に有徳(virtuous)なのである。この徳性は行為者(要するに蛋白質の塊であるわけだが)の物理的傾向性の問題である。有徳な人は息を吸うように水を飲むように正しい(或いは善い)行為をなすだろうが、その行為に当たって別段「私は~すべきである」といった判断を下しはしない。理性によって判断し意志によってそれに従う自由意志を持った主体、の如き描像を捨てれば外在主義に敢えて抗すべき理由などない。」

 

安藤馨「あなたは「生の計算」ができるか?−市民的徳と統治」より

 

 

ラチオ06号

ラチオ06号

 

 

 この文章の意味がちょっと難しくていまいちわからないという声を耳にしたので、とりあえず論文内における文脈を無視して、この文章だけに限って簡単なワタクシなりの理解を置いておこうと思います。理解の一助になれば幸いです。

 

 

無道徳者(amoralist)とは、真摯に道徳判断を行っているにもかかわらずそれに対応する動機付けが伴わない者を指す。例えば、太郎が次郎に殴りかかっている状況を見て「私は太郎を止めるべきだ!」と真摯に判断したにも関わらず、制止行為をとるような動機を全く生じないような者を想像してみると良いだろう。

 

直ちに違和感を覚えるように、そのような判断は本当に真摯になされたといえるのか疑わしく、無道徳者など想定しうるのだろうか。

 

道徳判断に関する動機付け判断外在主義(以下、外在主義)をとるような外在主義者はこのような無道徳者の存在を認める。ここで注意すべきは、そのような者が「存在しうる」ということであり、現在そのような者が存在しているとか過去に存在していたとか道徳判断はそのようなものであるというようなことを言っているのではない。つまり、真摯な道徳判断とそれに対応する動機付けとの間の「必然的な」連関を認めないといっているのである。

 

我々が行為をなす際の動機であったり行為への欲求であったりというものは結局のところ蛋白質の塊である脳の働きによるものであろう。そしてたとえば行為の動機付けをつかさどる大脳辺縁系の一部を何らかの事情により損傷した者が、無道徳者となるという想定は可能であろう。そのような者は脳の一部が損傷していることによって、まさに「真摯に道徳判断を行っているにもかかわらずそれに対応する動機付けが伴わない」という道徳的傾向性を備えるに至っているのである。

 

このような観点から、道徳的傾向性の存在可能性(の真否)については進化生物学や脳神経科学といった分野によって解明ないし一般的説明が与えられる問題といえる。

 

上記を前提に今度は逆に有徳な者(Virtuous people)について考えてみよう。この者は真摯に道徳判断をしていない、もしくはそもそも道徳判断をしていないにもかかわらず、正しい行為をなす動機付けを有している。有徳な者はたとえば太郎が川で溺れている状況を見たとき(このとき太郎を助けることが道徳的に正しい行為であるとする)、仮にその者が「太郎を川で助けるという行為は道徳的に間違っている」という認知的判断を有しているとしても、もしくはそもそもなんらの道徳判断を有せずとも、太郎を助ける動機付けを有するだろう。

 

このような者の存在可能性は無道徳者のそれに比べ想定しやすいだろう。太郎を助けたあとその有徳な者に対し「なぜ太郎を助けたのですか?」と尋ねた場合、その者は「それが正しいと思ったから」などと答えたりそう思ったりするとは必ずしも限らず、「理由なんてないけど…」といったり「なんとなく」といったり「体が勝手に動いていた」ということの想定は容易だろう(し、実際にそのような者は存在するだろう。マザーテレサとかそうだったんじゃない?知らんけど)。

 

上記を見てわかるように、客観的に見て道徳的に正しい行為をなすにあたって、必ずしも道徳判断とそれに伴う動機付けを経由する必要はないといえることがわかる(経由することを否定するのではない)。

 

 

外在主義に対する批判・反論・再反論などの紹介はまた今度。(メタ倫理学入門には言及が乏しい)

乃木坂46「きっかけ」と近代立憲主義のアポリア

システムがそれなりに成熟していれば、意識的な決断は必要ない。これだけ相互扶助のシステムがあって、これだけ生活を指示してくれるソフトウェアがあって、いろいろなものを外注しているわたしたちに、どんな意志が必要だっていうの。問題はむしろ、意志を求められることの苦痛、健康やコミュニティのために自身を律するという意志の必要性だけが残ってしまったことの苦痛なんだよ。

伊藤計劃『ハーモニー』より

 

www.youtube.com

え~こんにちは。以前こんなことを言ったことがあります。

しかし誰もやってくれないので、アンドゥムルメステール(安藤馨先生のファンのことです)であるわたしがやることにしました。なぜ。

以下で引用する乃木坂46「きっかけ」作詞者は秋元康氏です。(氏名表示)

歌詞全文はこちら

きっかけ - 乃木坂46 - 歌詞 : 歌ネット

 

 

 

わたしはこの曲が大好きなのですが、それは歌詞の中に近代立憲主義アポリアを見るからなのです(驚異の論理展開)。

moominpapa.hateblo.jp

過去エントリにて、蟻川恒正『尊厳と身分‐憲法的思惟と「日本」という問題‐』所収の「「命令」と「強制」の間‐最高裁判例に潜在する「個人の尊厳」」を紹介しました。そこで触れられている入江裁判官や、そして樋口陽一‐蟻川恒正先生が暴露・強調する「強い個人」の観念、「自分のことは自分で決める」という観念は、近代立憲主義の中核たる「個人の尊厳」観念から要請されるとともに近代的自由との緊張関係を孕むものとされます。

 

「きっかけ」の歌詞においては、まさに上記のような近代立憲主義アポリアが卓抜した比喩によって表現されています。

 

Aメロ・Bメロ・Cメロ・Dメロにおいては一貫して、信号機を見、周囲を見ながら横断歩道を渡る一人の心理描写がなされる。

ふいに点滅し始め急かすのかな

いつの間にか少し早歩きになってた 

自分の意思関係ないように誰も彼もみんな一斉に走り出す

 ここでは、信号機に「急げ」「進め」と言われた自分が「いつの間にか」早歩きをするようになっていること、そして周囲に「急げ」「進め」と言われた人々が一斉に走り出したことが描写されている。この描写は後のサビにおいてもなされている。

ほら人ごみの誰かが走り出す

釣られたみたいにみんなが走り出す 

 信号機に命じられること、命じられることによって横断歩道を渡ることについての心理もまた表現される。

進みなさいそれから止まりなさい

それがルールならば悩まずに行けるけれど…

「進め」「止まれ」と命ずるルールがあれば、自分は自分の行為理由をあれこれと思い悩む必要はなくなる。法に権威性を認めるということは法に従うこと以外の行為理由を排除するということ。

 

「自分」そして「みんな」の中には己の意思をきっかけとして横断歩道を渡り始めた者はいない。

別に自分で決断する必要なんてないし、既存のルールに従っておけば、周りに合わせておけば、それで何も問題ない。自由とは自分で何かを選び取ることができることだけど、何かを諦め何かを選び取ることはいつだって苦しい。「自由からの逃走」とかってエライ人も言ってるじゃないか。

 

今まではこう、考えていた。でも「私」は常に変わっていくし、変わっていきたいとも思っている。昨日の私と今日の私が違うように、今日の私と明日の私は違うはずだ。未来において他律的な私ではなく自律的な私になることを、今この瞬間を生きる「私」が欲求しているのだ。

 

私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。そして、その後は?

カミュ『異邦人』より

 

 

決心のきっかけは理屈ではなくて

いつだってこの胸の衝動から始まる

流されてしまうこと抵抗しながら

生きるとは選択肢たったひとつを選ぶこと

 

 

理屈がきっかけの決心だって他律的だ。そうじゃなくて、理屈に従いたいという私の欲求によって、私は決心するのだ。選ばされるのじゃなく選ぶということ、動かされるのじゃなく動くということ、生かされるのじゃなく生きるということ。「自分のことは自分で決める」っていうのはそういうことでしょ。きっかけはいつだってこの胸の衝動からじゃないといけない。生きるのではなく生かされる時、そこに尊厳はあるといえるのだろうか?

 

 

…興奮して途中から完全に文体が変わってしまいました。申し訳ありません。

以上に見たように、「きっかけ」の歌詞には、他律的な私から自律的な私へと移ろう「私」の心情がはっきりと描写されているのです。

 

憲法的思惟』におけるmob-reasonの相克、入江意見における「判決に従うか従わないかは自らがすべての責任を以て決するのでなければならない」という峻烈な信念と「きっかけ」はいずれも、「自分のことは自分で決める」ことへの苦痛と「自分のことを自分で決めない」ことへの抗拒がなんであるかを、我々に突き付けている。